豊平川は「くずれた崖」(Tuy-pira)の川、藻岩山は「いつも眺める所」(Inkar-us-pe)だった

何度も書いてきたが、私は札幌の南端に近い土地に住んでいる。そこは岩石に囲まれた場所だと強く感じている。自宅から歩いて二、三十分のところ、ほぼ南から北に流れる豊平川の東側に、かつてほぼ100年間にわたって「札幌軟石」と呼ばれる建築用の石材が大量に切り出された採掘跡が残っている。また、豊平川の西側には現在でも硬石が切り出されている山、硬石山がある。そんな石、岩が両岸に続く間を豊平川という水の道が走り、それに寄り添うように国道をはじめとした人工の道が走る。

「北海道のアイヌ語地名」に載っている佐藤和美さんによる「豊平川」の語源解説にハッとした。

豊平川の語源はアイヌ語の「トゥイピラ」Tuy-pira(くずれた崖)である。「豊平(とよひら)」という地名が川の名に転用されたのである。ここでは「ピラ」pira(崖)に「平」の字が当てられている。日本語の古語では「ひら」とは急斜面のことであるが、まぎらわしい当字である。
佐藤和美「札幌地名考」

私のつたない土地身体感覚はアイヌ語の地名に記録されたアイヌの人たちの土地の記憶にかなり接近していたことが分かって嬉しかった。

ところで、現在は、元来「くずれた崖」であった一部が、人間の手によって「くずされた崖」になっている。「くずれた」部分に目を付けた者がいたのだ。なぜ「くずれた」か、「くずれる」崖は何を意味するかに気づいた者がいた。それはてっきり北海道開拓使の「日本人」の誰かだと思い込んでいたが、実は違った。

***

先週の日曜日(9月2日)の午後、真駒内川に行く前に、現在は「藻南公園」の一部としてきれいに整備された「札幌軟石採掘場跡」を歩いた。(同じ採掘跡地を利用したより本格的な公園である「石山緑地」とは国道と道々が立体交差する石山高架橋によって分断されたように感じる。)

(札幌軟石採掘場跡を北側から望む)

(札幌軟石採掘場跡を南側から望む)
軟石が切り出された部分が今も絶壁として露出し、頂部分に繁る木々と強いコントラストをなしている。元来の石の山がほとんど半分削り取られた印象がある。


整備され尽くしていない林のゾーンに入ってみたら、苔むした軟石のブロックが散乱していた。いつのものかは不明。

札幌軟石採掘場跡内には、解説ボードが設置され、かつての採掘に関する歴史の一端を知ることができる。そのうちの一つ。(「開拓史」は「開拓使」の誤りである。)

そうだったか。「お雇い外国人、アンチセル、ワーフィールド」が豊平川の「くずれた崖」に目を付けたのだ。JETROの「デジタルアーカイブズ「日本の経験」を伝える」の中に、アンチセルとワーフィールドの詳しい記録があった。

(明治)政府によって導入された外国人技術者たちが,開発当初の北海道石炭業の担い手の主流を形成した。彼らを媒介として北海道石炭業の基礎はつくられていった。その先鞭をつけたのがH.ケプロンである。明治政府の要請により,アメリカ農務長官であったケプロンは,化学技師A. アンチセル,土木測量技師A. G. ワーフィールド,医師S. エルドリッジを伴って1871年来日し,翌年から北海道開拓使顧問兼頭取の肩書きで北海道開拓に着手した(1875年解任)。彼はブレークから地質鉱物調査の報告を受け,それを鉱山開発の重要な参考にしながら,ワーフィールドには測量,アンチセルには地質調査にあたらせている。翌1873年には北海道石炭業の開発にとって,とりわけ重要な足跡を残したB. S. ライマンとその弟子H.S.マンローによる全道的な地質鉱物調査が行なわれた。ケプロンと対立して解任されたアンチセルの後任として来日したライマンは,1873年から2年間に全道にわたる調査を行なった。とくに幌内付近は数回にわたり調査されている。従来指摘されているように,この調査活動とその結果が北海道石炭業の基礎となったことは間違いない
春日豊「北海道石炭業の技術と労働」(国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告、1981年)

おそらく「地質調査」にあたったアンチセルは「くずれた崖」=「軟石」とすぐに見抜いたのだろう。アンチセルらの発見の翌年1872年には本州から石工が集められて採掘が始められたという明治政府の迅速な動きも興味深いが、それ以上に、北海道の土地がアメリカ人によって、いわば「裸にされていた」という事実に驚いていた。「静かな大地」は日本人+アメリカ人のタッグによってにわかに騒がしくなったのか。

元来「くずれた崖」だったところを盲滅法に「くずした」結果を私は目の当たりにしていたわけだ。アメリカの開拓の歴史と北海道の開拓、開発の歴史が重なる。

***

ついでに、先の佐藤和美「札幌地名考」には、私が毎朝拝む「藻岩山」の語源解説もあった。

札幌の南にある藻岩山からは札幌市内が一望できる。「モイワ」Mo-iwaとはアイヌ語で「小さい山」という意味であるが、藻岩山はアイヌ語で「モイワ」と呼ばれたことは一度もない。実は円山がアイヌ語で「モイワ」と呼ばれていたのである。「モイワ」は近くに円山村があったため、円山と呼ばれるようになった。「モイワ」が「円山」と呼ばれるようになったため、余った「モイワ」がとなりの山の名になってしまった。それが藻岩山である。

藻岩山自体はアイヌ語で「インカルシペ」Inkar-us-pe(いつも眺める所)と呼ばれていた。その名のとおり眺望のよい所である。

前半の話は知っていたが、あの山が「インカルシペ」Inkar-us-pe(いつも眺める所)と呼ばれていたことは初めて知った。これで、藻岩山が札幌の「目」であるという私の土地身体感覚が確かめられた気がした。