石の記憶:「穴」とは何か

夕方、気分転換を兼ねて、ちょっと気になっていたこともあって、豊平川を見に行った。

写真右側、東側の河岸には、札幌軟石採掘場跡からつづく「石の山」が迫る。藻岩山が隠れている。

西側には、現在も削り取られている硬石山が迫る。この景観に改めて何かうっすらと感じていた。肝心の気になっていたこととは、実は「穴」だった。豊平川に合流する小さな川(の名前)「穴の川」が気になっていた。なぜ「穴」なのか。

これが穴の川。(右手に偶然、軟石採掘場跡の「穴」が小さく小さく写っていた。)

Wikipediaに簡単な記述があった。

穴の川の下流は、豊平川河岸段丘を北東に流れる。下流部は「石山」に条・丁目を付けて区分した住宅地である。うち西部は昔「穴の沢」といったが、今は石山の一部である。

現在使われている「石山」という地名の旧名が「穴の沢」であったことはウェブ上でも多く語られている。しかし、なぜ「穴」なのか。札幌市建設局河川計画課主催の「さっぽろ地域川づくり」に「穴の沢」という地名の由来が書かれていて、そのアイヌ語語源に驚いた。

穴の川は、南区石山地区の住宅地を通り、豊平川に合流する一級河川です。石山地区は、昔、「穴の沢」(アイヌ語で「ウコッ・シリネイ」互いに山がくっついたところ)という地名で呼ばれていました。

「ウコッ・シリネイ」、「互いに山がくっついたところ」。そうか、その昔この辺りに暮らしていたアイヌの人たちは、豊平川(くずれた崖Tuy-piraの川)の周辺を、そう呼んでいたのか。「互いの山」とは、軟石採掘によっておそらく半減以上した「石の山」と硬石山のことではないかと思った。あるいは、……。

肝心の「穴」に関して、「由来・日因縁・ミニヒストリー」に決定的なことが書かれていた。

真駒内と藤野の間にある地区の字名で、「石山」と呼ばれています。語源は明確ではないですが、古くはアイヌ語の「ウコッ・シリネイ(互いに山がくっついたところ)」と呼んでいたといいます。その後石山は開拓当時、地形的に穴が多かったためか、先住民族が開けた横穴が多かったためか、「穴の沢」という地名がつけられました。昭和19年の字名改正で石山と呼称しました。

推測とはいえ、「先住民族が開けた横穴」という言葉に、私の中の二つの記憶が火花を散らして結合した。下の写真と「アふンルパル(ahun-ru-par)」である。

これは先日(9月2日)、札幌軟石採掘場跡を歩いたときに撮ったものである。この「穴」を私は十年来気にしてきたのだった。「アふンルパル」とは、以前、「山神」碑のエントリーで触れた、知里真志保氏が『地名アイヌ語小辞典』(4頁)の中で写真入りで説明している「あの世への入口」あるいは「極楽穴」のことである。

先住民族」すなわちアイヌの人たちが軟石の岩山に数多くの「横穴」を開けた。そのうちの一つ、恐らく一番深い穴が、100年に及ぶ軟石採掘によっても「消えなかった」のだ。その「石の記憶」に私の中の何かが10年来感応していたのだろう。もちろん、その穴が「アふンルパル」だったという確証は何もない。すべては私のつたない推理にすぎない。しかし、ありえないことではない。

それで、一体何が言いたいかというと、軟石の奇山、石山の景観を明治以降の「開拓、開発」の薄っぺらな歴史観で愛でるのではなく、むしろその歴史によって覆い隠され、消されかけたもっと深い歴史の痕跡、石の記憶を想起する必要があるということである。
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ところで、札幌軟石に関して、「Geimori Net(札幌市南区芸術の森地区町内会連合会」に、札幌の南方に関する私の妄想的ビジョンを裏書きする地質学的記述があった。

軟石とは、いろいろな説があるので正確には分りませんが、凝灰岩の一種類であって、裏日本の第三系(六千五百万年前〜百五十万年前)の火山堆積層や、北海道を含めた日本各地に見られる第四系(百五十万年以降)の新規火山とその周辺地域の山地、丘陵に広く見られるものです。札幌軟石は、後者の支笏湖火山源の溶結凝灰岩で豊平川沿いに平岸台地から豊平峡まで広域に分布しています。学名「支笏湖噴火溶結凝灰岩」と呼んでいます。

私が住んでいる土地は「支笏湖噴火溶結凝灰岩」による広大な自然の「建築物」なのだ。私はなぜか『横浜逍遥亭』の中山さんが紹介していたブルーノ・タウトのプラン「アルプス建築」のビジョンを連想する。その「補助線」はまだ覚束ないが。