4000年を走る:アヨロ岬から白鳥湾へ:「蝦夷地」巡礼報告3


(「金屏風」を狙う中山さん)

9月19日、「蝦夷地」巡礼三日目、最終日。

登別温泉郷で投宿した登別グランドホテルは私が手頃な料金と「落ち着ける」を条件に選択したほとんど最良の選択のはずだった。広い和室の部屋も食事もよかった。露天風呂を含めた大浴場も広すぎず狭すぎずよかった。泉質も三種類。午前6時前、修学旅行生の歓声で目覚めるまでは私たちは楽園気分だった。それでも男風呂と女風呂が入れ替わった朝風呂、特に滝が見える露天風呂では楽園気分を盛り返し、早めの朝食を味わい、準備万端整えて、8時にはチェックアウトした。奇跡的に晴れ間が見えた。

まずは登別温泉郷の最奥にある泉源が広範囲に剥き出した硫黄の臭いが立ち籠める「地獄谷」を覗いた。修学旅行生と韓国からの観光客が詰め掛けていた。そして昨日予定から外したオロフレ峠に登った。小さなカルルス温泉郷を通り過ぎ、峠に近づくにつれ雲も近づいたが、途中の展望台からは洞爺湖がかろうじて見えた。峠は視界10メートルくらいの全くの雲の中だった。しかも強風。にもかかわらず、中山さんはそこでも何かを狙っていた。峠を早々に切り上げて、来た道を戻った。カルルス温泉郷を一巡りし、登別温泉郷を通り過ぎて、倶多楽湖(クッタラ湖)に立ち寄った。曇り空の下、黒のグラデーションに鈍く輝く「神秘の湖」は深い墨絵の世界のように見えた。

当初の計画は細部で随分と変更を余儀なくされた。その日の朝の時点では、オロフレ峠から洞爺湖方面を見晴るかし、クッタラ湖を間近に見た後は、登別から室蘭にかけての海岸線をくまなく辿る予定だった。「山神」碑のあった蘭法華(らんぽっけ)岬、鷲別岬、イタンキ岬、イタンキ浜、トッカリショ岬、金屏風、地球岬、マスイチ、ローソク岩、ハルカラモイ、銀屏風、アイヌ慰碑。そして東日本最大の吊り橋である白鳥大橋を渡り、そのまま高速道路に乗り継いで、白老のポロトコタンに立ち寄ってから、新千歳空港へ。

しかし、その日の朝になって私は地図を見直していて、なぜか当初の計画のオプションのオプションにすぎなかった約2000年前の続縄文時代アヨロ遺跡をルートに組み入れることにした。クッタラ湖を後にして、登別市街を横断し、太平洋直近のJR登別駅まで下ってきた私たちは、線路の踏切を越え、線路裏の一般道を走り、登別漁港を一瞥しながら虎杖浜(こじょうはま)に入った。ポンアヨロ川に架かる臨海橋を渡り、車一台がようやく通れる細い道を岬の先端に向かった。「そこ」は驚くべき場所だった。ポンアヨロ川の河口をアヨロ岬と名のない岬が挟む正に聖地だった。石碑のような石があり、アヨロ岬の上には灯台が建つ。河口で一匹のサケを奪い合うカモメたちの鋭い声が響き渡る。潮騒と潮風に柔らかく包まれる。私は興奮した。灯台に通じる坂道の途中に「カムイエカシ チャシ」の碑もたっていた。これは16世紀から18世紀にかけて造られた「海の砦」跡らしい。私はそのときは混乱したが、アヨロ遺跡と「カムイエカシ チャシ」は区別される。とにかく私は「そこ」に小さな小さな超ミニチュアの二風谷を見ていたような気がする。

そんな「寄り道」をしたせいで、当初の計画にあった「マスイチ、ローソク岩、ハルカラモイ、銀屏風、アイヌ慰碑」、そして「白老のポロトコタン」を訪ねることはできなかった。しかし、「「山神」碑のあった蘭法華岬、鷲別岬、イタンキ岬、イタンキ浜、トッカリショ、金屏風、地球岬」を一通り眺めると同時に室蘭港の近代的工場群を眺め、午後1時半に室蘭市の旧市街地のほぼ中心に位置するアーケード街の「天勝」の天丼にありつくことができた。食べ終わって午後2時。「醜いアヒルの子」のような優雅な白鳥大橋を渡って、高速道を一路新千歳空港に向かった。なんとか予定の3時半に間に合った。途中「樽前」のSAで見えることを期待していた樽前山は雲の中だった。なお、かつて蘭法華岬にあった「山神」碑は跡形もなくなっていた。

こうして三日間の中山さんとの「蝦夷地」巡礼の旅は終わった。もちろんまだまだ未消化の部分、今後言葉にしていかなければならない部分が圧倒的に多いが、忘れない内に、辿った場所の記録だけ、地点を線で結ぶように書いてみた。それらの各地点で中山さんは物凄い集中力で私には窺い知れない土地との言葉を越えた交渉を行っているように感じられた。その成果の一部をすでに『横浜逍遥亭・写真帳』で見ることができる。まるで体をこちら側に置いて、心をあちら側に持って行くような離れ業を見せられているようで感動すると同時に写真を撮るということに関して大切なことを学ばせてもらったような気がしている。カメラマン中山さんは4時30分発の便で東京に発った。

  • 4000年を走る(05:21)

  • アヨロ遺跡にて(00:36)