島のなかの家(the house in the island)

知里真志保著『和人は舟を食う』(北海道出版企画センター、2000年、asin:4832800043)で紹介されているウエベケル(酋長談)と呼ばれるアイヌの散文物語のいくつかを読んでいたせいか、不図つけたケーブルテレビでやっていた映画『アザーズ』(The Others, 2001)を思わず途中から最後まで観てしまった。生と死、この世とあの世の関係をめぐる、ありふれたストーリー、最も使い古された物語パターンなのに、なぜかかつてなく強く惹かれた。脚本・監督はチリ生まれのスペイン人、アレハンドロ・アメナバールAlejandro Amenábar, 1972-)。『アザーズ』はアメナバールのメジャー(ハリウッド)・デヴュー作だ。

私が読んだウエペケルでは「アフンルパル」等の呼称をもつ「あの世への入口」が二つに分けられた世界の間の唯一の通路、境界をなす。世界川(三途の川)、世界山、世界樹にならっていえば、「世界穴」である。私はずっと「穴」にこだわり続けてきたが、大事なのは、実は「穴」ではなく、「家」なのではないかと不図思った。ウエペケルの物語でも映画『アザーズ』でも、生者と死者が接触したり、死者が自分が今いる場所を知らされるのは家のなかでである。文字通りの「穴」はウエペケルでは物語の力学上要請される「仕掛け」でしかないように思えてきた。「家」こそが生と死に極限する二世界のインターフェイス(界面)なのではないか。

ところで『アザーズ』が物語的に優れている点は、件の「家」が「島」にあるという設定であると思われる。島と家が世界を二重に二分することで、あちら側のリアリティを増幅することに絶大な効果を上げている。そしてその島の中の家のなかで生者と死者の交感が始まる。

家(あるいは部屋)の中を舞台にしたスリラーや怪談が示唆することは、家こそが究極の「穴」、つまりは社会の限界、社会的記憶の縁であることではないか。そこに人類が定住によって改竄し続けてきた記憶の彼方が浸透し続けている。