朝日新聞の記事「縄文のビーナス」の切り抜き、人形記―日本人の遠い夢
21日の朝日新聞の朝刊にいわゆる「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶の一種が国宝に指定されることになったという記事が載った。これまでにも長野で出土した同種の土偶が国宝に指定された例はあるが、今回は、1992年に山形で出土した高さ45cmのかなり抽象化され洗練された造形の土偶、私の印象では、仮面をつけたどうやら若い女性、あのオホーツクのビーナスを連想させる処女像のようである。
土偶は県教委の調査団が1992年に西ノ前遺跡で発掘。約4500年前(縄文中期)のものとみられ、高さ45センチ、最大幅17センチ、重さ3.155キロで、国内最大の土偶だ。腰がくびれ、足元に向かって広がるラインが美しい女性の立像で、胸や腹に膨らみがあり、臀(でん)部が張りだしている。目や鼻、口は描かれていない。
発掘に携わった黒坂雅人さんの談話によれば、「土偶は破片が別々に5カ所から見つかった」という。そもそも壊されて埋められたと理解していいのだろうか。
この記事を読みながら、詩人の佐々木幹郎さんが写真家の大西成明さんとともに全国の「人形」を訪ね歩いた旅の記録である『人形記』(淡交社、2009年)の最後に、日本人にとっての「人形」のルーツとも言うべき数種の「縄文のビーナス」が取り上げられていたことを思い出した。
土偶「仮面の女神」(縄文後期〈4000年前〉、重要文化財、茅野市尖石縄文考古館蔵)部分、154頁
それらはオーストリアで出土した「ヴィレンドルフのヴィーナス」を連想させる、妊婦を象った土偶であり、それらの顔はみな「仮面」のように見える。中でも特に明らかに逆三角形の仮面をつけた「仮面の女神」と呼ばれる非常に印象的な土偶について佐々木幹郎さんは次のように述べている。
長野県茅野氏の「尖石縄文考古館」で、土偶の「仮面の女神」に出会ったときの衝撃は忘れがたい。逆三角形の仮面を顔にくくり付けたこの土偶は、明らかに死の女神だった。いや、現代人のわたしたちが死というものに対するのとは違う、死を飲み込み、それを豊穣へと転化させる勢いに満ちた女神だった。
この人形のなかには、何かがいる、とわたしは思った。「ある」のではなく、「いる」。確かに、何かがいる。
仮面の下に隠れて、彼女の眼は見えない。彼女が埋められた近くには、死者が埋葬されていた。死者は土の鉢を顔にかぶせられて眠っていた。その近くに左足だけを壊されて、彼女は埋められていたのだった。
死へ向かう闇のなかで、彼女は豊穣と多産を祈っている。仮面の下で畏怖すべき力が働いていた。膨らんだ土偶の足、その腹と尻。内部から膨張してくるものがある。そこに「いる」ものは、現代人の死の観念を弾き飛ばすような力を持っている。この世とあの世を隔てるものなど、どこにもない。死と絶望を圧するような力を持った人形。いや、人形という言葉さえなかったであろう時代の、根源的な人形の姿がそこにあった。しかも土偶は、作られた後に、地中に撒かれるために、壊される運命にあった。それもまた、現代の人形につながる運命である。(『人形記』168頁)
少なくとも私にとっては、「死の女神」であることは「明らか」ではないし、「仮面の下で畏怖すべき力が働いていた」ということもピンと来ないが、なぜ顔を隠す必要があったのかという疑問は色々と想像を掻き立てるのはたしかである。
この度、国宝に指定されることになった「縄文のビーナス」は、腰のくびれと後ろに突き出した尻から女性像であることはほぼ間違いないだろうが、私の印象では、朝日新聞の記事とは正反対に、乳房もお腹も強調されているようには見えない。その分、「仮面」のようなものに隠された顔の部分が、より一層異様な印象を与える。「仮面」のようなもので視界を遮ることによって、目には見えない何かに心を向けることが意図されたように思えなくもない。形こそ逆三角形ではないが、小さな4つの穴のあいた帽子のようにも見える湾曲した「仮面」のようなものが顔にくくり付けられている。その下の顔が見えてもいいはずの場所はのっぺりとしていて、口も鼻も目もない。両腕は省略され両肩が尖っている。臍のあたりを境目にして上体はやや後方に反り、したがって像の全体の姿勢としては、やや上を見上げているような印象を与える。何かを祈る姿勢に見えなくもない。下腹部は削ぎ落されたように扁平に見える。尻だけは後方に突き出している。胴は正面で合わせる衣装に包まれ、その上から肩掛けのようなものを羽織っているように見える。腰に布を巻き、両脚は末広がりのズボンのような衣装に包まれている。
このようなおそらく若い女性像は一体何を意味したのだろうか。佐々木幹郎さんが見た縄文後期(4000年前)の「縄文のビーナス」は「豊穣と多産を祈っている」ように見えるとしても、この縄文中期(4500年前)の「縄文のビーナス」は私にはそうは見えない。公式見解における「豊穣の祈りや命の再生の意味がある」という言葉も素直に飲み込めない。むしろ、司馬遼太郎がいわゆる「オホーツクのヴィーナス」に直観した巫女(シャーマン)のイメージが浮かぶ。五百年の違いも気になる。