デジアナ折衷路線

ジョナス・メカスの365日映画の軌跡------記憶と忘却の狭間で」(仮題)という論文というか研究ノートを書いていて、副題にある通り、私自身、記憶と忘却の狭間で翻弄されている。

見ないと思い出せないことが多い。見ると思い出せる。ただし、見る方法が難しい。私が構築できるレベルのデジタル環境では全く役に立たない。そもそもパソコンでマウスをクリックしたり、キーボード叩いたり、ウィンドウをスクロールしたりといった作業が思考を寸断し、気持ちを重たくする。しかし今となっては、多くの人がそうだと思うが、デジタル環境とアナログ環境とを折衷しなくてはならない。美崎薫さんの環境があれば相当に違うのかなあ、とちらりと思うが、ないものねだりをしていても仕方ないので二つの工夫をしている。

ひとつは、1年、12ヶ月、365日の映画全部をできるだけ短時間に思い出せるように、かなり鬱陶しいが、モニターの周囲に12ヶ月分のサムネイル写真カレンダーを貼付けている。個々のサムネイルは映画の代表的シーンのワンフレームである。これは365日すべての映画を思い出すための画像的トリガーになっている。

もうひとつは背後の本棚を振り返るとちょうど見やすい高さのところに、これも非常に鬱陶しいが、365日すべての映画に関する短文記述リストを10枚貼付けてある。これは思い出すための文字・テキスト的トリガーになっている。

さて、こうして画像と文字の両方で一覧性を確保した記憶想起装置を活用しているのだが、個々の想起だけでは、まとまったものを書くには、どうしようもない。本当はそれだけでも満足なのである。具体的な映画に寄り添うことで生まれる想起を味わうことだけで幸福だ。しかし、いろいろな事情によって、ある意味では不幸になるのを覚悟の上で、想起の快楽を断念して、冷たい構築の作業にかからねばならない。宿命。それで、肝心なのは、いうまでもなく、想起したことどもを、どんな観点からどのように構造化するかということで、そのレベルの高度な「想起」というか発見に時間がかかっている。

こんな報告をしている暇があるのか、というもう一人の私の声が聞こえる。