ジョルダーノ・ブルーノの素描を通して

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上:ジョルダーノ・ブルーノの素描(オリジナル)
下:ジョルダーノ・ブルーノの素描(構造図)


メカスの365日映画で3月22日(81日目)「有機的な外部記憶装置としての本 Giuseppe Zevola」以来何度も登場したイタリアのかなり変わったアーティスト、ジュゼッペ・ツェヴォーラ(Giuseppe Zevola, 1952-)は、ジョルダーノ・ブルーノGiordano Bruno, 1548-1600)のユニークな研究者としても知られる。4月28日(118日目)「"Theatre" Mars Bar, Giuseppe Zevola」(2007-04-28)でもセバスチャンにダンテを朗唱させ、自らはジョルダーノ・ブルーノに捧げる詩を朗唱していた。

『どこにもないところからの手紙』asin:4879956546の「第十三の手紙 1995年5月」のなかで、メカスはたくさんの頭を持つ「文明という怪物」、グローバリズムや「世界の均一化」の動向に対する「抵抗」について語りながら、訪れたナポリの良い意味での「古さ」を讃え、ナポリ在住のジュゼッペ・ツェヴォーラのジョルダーノ・ブルーノ研究家としての横顔を紹介している。ジュゼッペ・ツェヴォーラの研究の基本的な観点が面白い。

(前略)私がナポリで立ち寄った友人(ジュゼッペ・ツェヴォーラのこと:三上)は、いま床に座って、ジョルダーノ・ブルーノの「数学に抗して」の一連(サイクル:訳者)の素描を研究している。彼は私に言った。「ほら、ブルーノの研究者たちが作ったもの(写真下の構造図:三上)を観てごらん。彼らはブルーノの素描からディテールをすべて削ぎ落とした。残ったのはその形骸だけだ。彼のオリジナルが実際にどんなものだったか、今では知る人もいない。ほら、ここにパリに保存されているオリジナルから作った私のコピー(写真上のオリジナル:三上)がある。この違いを観てくれ!」違いは一目瞭然、子供にだって分かる。ところが、研究者は、ビジネスマンや美術商と同様、その違いが分からない。彼らにとってディテールやニュアンスは詩にすぎず、彼らには詩はもはや必要ないのだ。四百年前のローマにも詩は必要なかった。彼らはジョルダーノ・ブルーノを火刑に処した。彼は異端者! 汎神論者pantheist)! だった。彼は教会の前で……ああ、時代が悪かった……。(144頁)

ここで、ツェヴォーラ=メカスは、ジョルダーノ・ブルーノの素描の比較を通して、人生、世界、言語全般において、一見非本質的で余計で醜く感じられるかもしれない複雑なディテール(細部)や微妙なニュアンスを深く受けとる美的感受性を擁護している。それは「楽園の断片」というビジョンに真っすぐにつながる。

*1:『どこにもないところからの手紙』99頁の写真から