このなかなか印象的な題字は「17歳の少年」を演じたと一応は言える柄本佑(えもと たすく、1986年東京生まれ)の手書きである。
いい映画だった。監督は岡山から秋田まで「少年」と一緒に走ったのだなあ。それがよく伝わってくる。そしてそれだけで十分すぎるくらいだと思った。針生一郎も日本海に一番近い駅、青梅川駅舎で「少年」と心底向き合って時間を共にしていた。柄本佑もまた普通の意味での役者であることを突き抜けて「少年」と一緒に走ったに違いないと感じた。彼は「少年」を演じていない。
この映画に関して監督若松孝二自身はこう語っていた。
眼前の風景といかに対峙するか。それがこの映画なんだ。
岡山で母親をバットで殴り殺した17歳の少年が自転車で逃走し、16日後に秋田で逮捕されるという事件があった。父親ではなく、母親を殺したということにショックを受けて、そんなことをなぜしたのかと考えてみたけれど解らない。親殺しや少年犯罪は80年代から金属バット殺人事件や酒鬼薔薇事件など、似たような事件は起きていて、時代や社会の問題だとは一概には言えないし、最も引っ掛かった、疑問に思ったのは少年はなぜ北に向かったのか。16日間で1300キロ、自転車で一日100キロ近く走るには相当なエネルギーがいるし、北に向かったのは死に場所を探していたのかもしれないが、それが確かな理由なのかどうか。そんな風に考えているうちに、少年と一緒に旅をしたいと思うようになったのがこの映画の始まり。そして、自分達はなぜ、今、ここにいるのかと、目の前の風景と対話する映画を撮ろうと思った。
(公式サイト 監督)
誰の中にも「17歳の風景」があり、それは二重の「日本の風景」につながっている。ひとつは針生一郎を介して『日本心中』で描かれた少なくとも戦後の、「8.15」以降の歪んだ風景であり、もうひとつはその下に隠れがちな、若松孝二のいう「目の前の風景」である。「少年」が見たのは、そしてこの映画を通じて私が見たのも、目の前の風景との対話を失って久しい日本の歪んだ自画像であると思った。