うんこは誰のものか

ブラジルのサンパウロ在住の写真家・楮佐古晶章(かじさこあきのり)さんが、うんこの話を書いている。面白かった。

自宅トイレの排水の具合が悪く、自分のしたうんこが流れてくれないらしい。北大農学部時代に野生動物のうんこの分析などの経験が豊富な楮佐古さんは、うんこには慣れていると自負するが、流れてくれない自分のしたうんこに長時間対面することにうんざりして、こう告白する。

何故かしらないが、自分のしたうんこに非常に羞恥心を覚える。絶対、人には見せたくない。別に人と変わったうんこをしているわけではないが(ほとんど他人のうんこをみたことはないが)嫌なのである。

さて、私もまた子育てや風太郎の世話の経験から、うんこではずいぶん色んな苦労を経たおかげですごく慣れている。自分のしたうんこにも羞恥心は覚えない。その気になれば、ほれほれ、と家族に今日のうんこは立派だぞ、と自慢して見せることもできる。もちろん、まだそうしたことはないが。

ところで、思う。うんこって誰のもの? 確かに、「それ」はこの私が出したものだ。この私の身体から出たものだ。だが、元を正せば、食べたり飲んだりしたものの成れの果てであり、考えてみれば、この私を通過する物質の塊に過ぎない。もちろん、見た目やニオイは大好きにはなれないとしても、眼を背けるほど嫌になる必要もない。まてよ、世の中にはうんこを心の底から愛する人もいるような気がしてきた。

そういえば、かつて楮佐古さんは、うら若き美しい女性がサンパウロのある通りで平気でうんこをする姿をごく当たり前の光景として描いていたような記憶がある。それにはさすがにちょっと驚いたが、環境しだいでは、それもアリだと思う。