私の大学、見えないキャンパス

先日「ジョン前田がロードアイランド・デザイン・スクールの第16代学長に就任していた(2008年10月15日)」でも紹介した下のキャンパス・ツアーのビデオを学生たちと一緒に観た。

普通、大学のキャンパスというと、外部から隔てられた敷地内に建設された各種施設群からなる半閉鎖的な空間を思い浮かべる。しかし、ロードアイランド・デザイン・スクールのキャンパスはそのような一般的なキャンパスのイメージからはかけ離れている。ロードアイランドの街全体が大学のキャンパスである。市内各所に散在する図書館や美術館や自然誌博物館やギャラリーや各種売店などが「大学施設」としてちゃんと「機能」している。さしずめ、「見えないキャンパス」である。キャンパスという概念が創造的に破壊されている、と感じる。当然のことながら、街や大学も情報デザインの対象である。サイズやスケールに関係なく、人間がそこで長い時間を過ごす空間はどうあるべきか、を考える上でも、このロードアイランド・デザイン・スクールの「見えないキャンパス」は刺激的な教材であると改めて思った。もっと言えば、本来「大学」とは、こういう姿をとるべきものなのではないか、そんな思いにさえとらわれた。そして「私の大学」という言葉が頭に浮かんでいた。

大学生の頃に夢中になって読んだロシアの作家マクシム・ゴーリキーの小説『私の大学』のことも連想していた。

心の籠ったゴーリキイ略伝を宮本百合子が書いている。

ゴーリキイは小学校を卒業していないばかりか、大学は勿論中学も出ていません。

http://novel.atpedia.jp/page/6086.html

意識の持ち方次第でいつからでも成立可能な「大学」。現役の大学生にとっても、そうでない人にとってもありうる「大学」。むしろ現役の大学生たちの方が大学に通う大学生であることを疑うことを知らない、それを自明とみなす惰性の中にいるが故に、気づきにくいかもしれない「大学」。「私の大学」。