宮本 常一 (KAWADE道の手帖)
宮本常一はこんな笑顔の素敵なおっさんだった。
日本の村という村、島という島を歩き続け、膨大な記録を残したとんでもない民俗学者・宮本常一は10万枚余りの写真も残した。宮本常一の故郷、瀬戸内海に浮かぶ周防(すおう)大島の東和町に、2004年5月18日、「周防大島文化交流センター」がオープンした。そこには、その10万枚余りの写真が一枚残らず収められているという。昭和35年から昭和56年までの間に各地で撮影された「失われた昭和」を記録した宮本常一の10万枚余の写真コレクション! いつか必ず見に行こうと思っている。でも、人生何が起こるか分からない。明日、ポックリ逝くかもしれない。なので、少しでもいいからその雰囲気を味わっておきたいと思って、10万枚余から厳選されたという約200枚が収録された本を買った。素晴らしい。
かえすがえすも残念なのは、宮本が昭和10年代から昭和20年まで撮影した写真が失われたことである。
宮本が友人からもらったコダックのベスト判や、弟からもらったウエルターのブローニー判で写真を撮りはじめたのは、渋沢敬三の勧めで、彼が主催するアチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)入りした戦前の昭和10年代からである。だが、日本各地の村々を撮影したその写真は、昭和20(1945)年7月の堺空襲で、惜しくもすべて焼失してしまった。
宮本が再び写真を撮りはじめるのは、昭和25年の八学会連合による対馬調査からである。しかし、昭和20年代に撮られたものはきわめて少なく、大半が昭和35年以降に撮影されたものである。昭和35年、宮本は一本のフィルムで72カット撮れるハーフサイズのオリンパスペンSを購入し、本格的な撮影活動を開始した。
(4頁)
このあたりの経緯は、佐野眞一著『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文芸春秋、1996年)に詳しい。
宮本の写真は芸術写真のように美しくはないが、一目見ただけで、無性に懐かしく、切なく、暖かい気持ちになるような、しかも一度見たら忘れられない写真ばかりである。その意味で「美しい」。宮本は写真をあくまで「メモがわり」の「記録」とみなしていたらしい。
あれだけ膨大な著作を残しながら、宮本が写真について語っている文章はきわめて少ない。そのななかで、昭和42(1967)年から刊行が開始された『私の日本地図』(同友館・絶版)シリーズ15巻の第1巻目の「天竜川に沿って」(asin:B000JBK6UO)のあとがきに、写真について語った珍しい記述がある。
宮本はそこで、写真は別に上手に撮ろうとも思わないし、メモがわりのつもりで撮っていると述べ、次のように続けている。フラッシュもたかず、三脚もつかわず、自分で現像するのでもなく、いわゆる写真をとるたのしみというようなものも持っていない。忘れてはいけないというものをとっているだけである。だが三万枚もとると一人の人間が自然や人文の中から何を見、何を感じようとしたかはわかるであろう。そしてそれは記録としてものこるものだと思う。(中略)
ここにかかげる写真は一見して何でもないつまらぬものが多い。家をとったり、山の杉林をとったり、田や畑をとったり。しかし私にはそれが面白いのである。そこには人間のいとなみがある。(中略)だから私はそういうものを見のがすことができない。つまり他の人が何でもなくつまらないと思うものにも、私はひどく心をひかれたり感動したり、また考えさせられもしたものである。(中略)なぜなら私はこうした景観や事物の中からいろいろの物を学び、物の見方を学んだのだから。昭和42年の時点で3万点だった写真は、昭和52年の時点で10万点にのぼった。その14年間に7万点の写真が追加されたことになる。一年間で5千点撮影された勘定である。
宮本は足を止めて構えたりせず、ほとんど歩きながら撮りつづけた。汽車に乗ると必ず窓際に座り、車窓に流れる風景にレンズを向けた。それは最近の若者が携帯電話の「写メール」でスナップ写真を撮るような感覚だった。
(6頁〜7頁)
しかし、ここで宮本が語り、佐野が敷衍する言葉を鵜呑みにすることはできないと思う。というのは、例えば、この私ならば、数時間、いや数日かかってようやく縮められるような世界との「距離」を、宮本は瞬時に縮めながら歩き続けていたに違いないと感じられるからである。そこでは、一体何が「忘れてはいけない」ものなのかを瞬時に見抜く鋭い目が働いていたに違いない。宮本の写真は私に、単に「古きよき時代」、昭和三十年代の懐古趣味やノスタルジーに浸ることを許さない力を湛えている。そのあたりをもっとうまく言葉にできないだろうか。
ところで、『ちくま日本文学022 宮本常一』には、石牟礼道子による秀逸な解説「山川の召命」が収められている。その中盤で石牟礼道子は、『愛情は子供と共に』から抜粋された「子供の世界」に触れて、わずか半世紀の間に急速に失われてしまった、かつての日本人がもっていた深々とした物の見方、死生観、子供観に思いを馳せながら、ドキッとするようなことを書いている。
自分の中のはるかな暗がりに、いまなお影うすくたたずんでいる魂が身じろぐような気持ちを覚える。
(463頁)
これだ! と思った。
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