『小島一郎写真集成』(インスクリプト、2009年、asin:4900997234)の巻末には、高橋しげみ氏の「北を撮る------小島一郎論」と題した長い論考が収録されるとともに、小島一郎の生前唯一の写真集『津軽』に掲載された小島自身による「私の撮影行」と題した短文が転載されている。両者について簡単にメモしておきたい。
「北を撮る------小島一郎論」は、小島一郎の人生と写真に対する「なぜ」という根本的な問いかけに発し、彼の写真を見る現代のわれわれのまなざしの行方を見定めようとする労作である。その中の或るエピソードに驚いた。小島一郎は死ぬ数年前に、こちらもすでに病床に臥していた渋沢敬三に出会っていたのである。そうか!と思った。以前書いたように(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090325/p2)、敬三は父の篤二の写真集『瞬間の累積』(慶友社、1963年)を出版することを強く念願し、ついにそれを果たして亡くなったが、実はその写真集の編集に小島一郎が深く関わっていたのである(219頁)。さもありなん。津軽野を隅々まで何回も歩き、撮り続けたいわば「歩く人」だった小島一郎の写真に、日本列島の津々浦々を歩き、十万枚の写真を遺した宮本常一を発見し育てた渋沢敬三が注目しないわけがなかった、と思った。
「私の撮影行」には小島一郎の短かった写真家としての人生の出発点が率直に書かれている。
それから数年後、写真を始めるようになった私は、かつて買出しに通った津軽野の風物を想起して、是非又一度行ってみようという気になった。空の澄んだある秋の日にカメラを下げて出かけて行ったのがはじまりで、それ以来”津軽”にとり憑かれてしまったのである。何のためにと聞かれても私には何と答えてよいものやら見当がつかない。美しく澄んだ空か、あるいは天高く燃え上がる雲か。然しそれだけではない。農夫が果しもない広い大地に鍬を入れたり、陽の没するまで働き続けている姿をみて激しく私の胸をうつものがあった。それというのも、当時の私が、敗戦の虚脱した空気の中に目覚めることなく、仕事に身の入らない怠惰な毎日を過ごしていたからであろう。反省と自己嫌悪のいりまじる不安定な波のなかにもがいていた私は、ただ憑かれたもののように津軽の撮影に熱中していった。意識的、計画的な何もなくて、私がうけた感動によって、情熱のほとばしるままシャッターを切っていった。北津軽郡五所川原市を起点とし、あるいは前記の木造町を起点として私の撮影行はいくたびも繰り返された。猛烈な吹雪に吹きつけられながら、十里余の道のりを休むまもなく歩きつづけながら、あるいは道あって道のない雪の吹き溜まりに落ちこんでもがいたりしながら––。(227頁)
彼の遺した写真からもひしひしと伝わってくる<憑かれたような熱>がよく分かる気持ちのよい文章だ。彼のフィールドワークの起点は、私の遠い故郷でもある。五所川原は祖父の生まれ育った土地だ。幼稚園児の頃一度だけ母と訪ねた朧(おぼろ)げな記憶がある。小島一郎の写真が収蔵された青森県立美術館と五所川原を訪ねたいと思っている。