まるで死体のように、人目につかない場所で炎上する本、人目につかない場所に打捨てられた本。ちょっとやり過ぎのような気がしないでもない新潮社写真部の広瀬達朗撮影の意味深な写真が表紙を飾る佐野眞一著『誰が「本」を殺すのか』(上下巻、新潮社文庫、2004年4月)を読む。面白かった。
題名にカギカッコ付きの「本」とあるように、本と一口に言っても多義的である。「本」は、個々の本を指す場合から「著者から版元、書店を経て読者の手元に届くまでの装置としての『本』」(上巻26頁)を指す場合までの幅を持つと同時に、著者から読者に至る各節目での意味づけや扱いも多様である。文化財/消費材という一見対立するような見方もあれば、アーカイブ/フロー(カレント)という二面的な見方もできる。佐野眞一は、しかし、一般論を説くことは徹底して避け、「本」に関わって生きる人たちの建前と本音の総体、そして彼らの現場で起こっている事実に迫るというスタンスを貫く。
……出版文化「論」として、「大文字言葉」で堅苦しく説くのではなく、「本」にまつわる悲喜こもごもの人間の「物語」として、「小文字言葉」で興味のおもむくままに語っていきたい。(上巻27頁)
それに、「死」もまた多義的である。本の「死」は、売れないことが「死」を意味する場合から、逆に売れることこそが「死」を意味する場合までの幅を持つ。その意味では、「死」という比喩は誤解に導きやすいかもしれない。問題なのは、人間と「本」との関係の大きな変化であると思う。もっと言えば、その「関係」そのもの地殻変動であり、分かったつもりになっている「人間」と「本」の中身共々の変化ではないか。ついつい説いてしまいたくなるテーマではある。
むろん「本」自体が、死滅に向かっているわけではない。「本」と人間の関係性、読むという行為自体に修復不能の断絶が生じ、「本」が置かれた立ち位置が根本的に変わろうとしている。(上巻17頁)
……グーテンベルクによる活版印刷技術の開発以来五百年あまりつづいてきた出版のパラダイムが崩れ去り、時代がそれにとってかわる新たなパラダイムを求めている……(上巻20頁)
人間は、紙の形であれ、電子の形であれ、「本」の世界から情報や知識や感動を得るふるまいをやめないだろう。その意味でいうなら、「本」は死なない。だが、再販制と委託販売制のヌルマ湯につかり、”花見酒の経済”に酔い痴れてきた日本の出版界が、クラッシュアウトすることはほぼ間違いない。(上巻25頁)
本書の元になる統計資料や、取材(ルポルタージュとインタビュー)で得られた事実や証言は2003年までのものだが、それでもそれらは、その後現在に至る日本の出版界の状況をよりよく認識するのに非常に役に立つ。また、本書に登場する何らかの形で本に関わって生きる150余人の証言と活動は、単に出版界だけの話にとどまらず、この国で生きる術や作法の様々なモデルの提示になっている。