「終(つい)のすみか」と「身寄り」

[
 日付失念^^;


先週、朝日新聞の社会面の片隅に「群馬『たまゆら』火災の背景」(上、下)と題された記事が二日連続で掲載された。「上」の見出しは「劣悪施設 目つむり紹介」、署名は石村祐輔、佐々波幸子。「下」の見出しは「終のすみか探るNPO」、署名は根本理香、太田啓之。

約1ヶ月前に、10人の死者を出した群馬の高齢者専用施設「静養ホームたまゆら」の火災の背景に取材した大きな記事に触発されて、この国の「棄民政策」、さらには他人事ではない「無自覚自滅症候群」とでもいうべきますます強まる傾向について書いた。


また、1週間前には、同じ関心から、高齢者対象ではないが、宮城県で僧侶・真壁太隆(まかべたいりゅう)さんが6年前に始めた不忘山行持院(ふもうさんぎょうじいん)における生活保護さえ受けられない人々のためのいわば「駆け込み寺」での肝っ玉のすわった行いを紹介する小さなコラムに触発されて書いた。


今回の記事は、「群馬『たまゆら』火災の背景」と題されてはいるが、その内容は、この国で老後を迎える人にとっては誰にとっても他人事ではない身も凍るような現実の一部を取材したものである。それこそ本物のスリラー、終わりの見えない恐怖物語である。

その記事を切り抜いて一週間、自分にとって、ひいては人間にとっての「終のすみか」はどこか、何か、ということについてつらつら考えない日はなかった。そして生活保護や介護の仕事に携わる人たちが頻繁に口にする「身寄りがない」という言葉から、人間にとっての本当の「身寄り」とは何だろうと考え始めていた。


「(上)劣悪施設 目つむり紹介」によれば、全国で特別養護老人ホーム(特養)に入りたくても空きがなくて入れない待機者は39万人に上る。代わりに受け皿になっている無届け施設の老人ホームは厚生労働省の調べでは579カ所ある。それらは主に生活保護受給者を対象とし、中には事務所をベニヤ板で仕切った3畳程度の空間に押し籠められる悪質なケースもあるという。そのような劣悪な環境でも「ニーズ」があるから仕方がないと語る有料老人ホームを運営するある不動産会社の社員もいる。

なぜ、そのような「ニーズ」があるか。東京都内の生活保護担当職員の次のような言葉が引用されている。

生活保護の人の大半は身寄りがなく、在宅介護は困難。自分の親族なら入れないような施設も紹介せざるをえないこともある。


墨田区生活保護を受けていた要介護の老人15人が住み慣れた場所を離れ、「たまゆら」に入所し、そのうちの6人が火災で死んだ背景には、劣悪施設であることを知りながら、それでもまだ居場所があるだけましであるという判断をし、劣悪な環境には目をつむり、そういう施設を紹介せざるを得ないという欺瞞的状況があるわけだ。どんなに強弁しようとも、そんな劣悪施設がまともな「居場所」であるとみなすことはできないことは、紹介する職員自身が一番よく分かっている。「自分の親族なら入れない(ような施設)」という表現ではっきりと引かれた線の向こう側はすでに死と隣り合わせの場所だろう。

こうした欺瞞的状況をさらに悪化させつつあるのが、政府が2006年に断行した医療費抑制政策だったという。それによって、長期入院患者向けの療養病床が大幅に削減され、要介護度が軽い生活保護受給者は受け入れられなくなった。しかも、一般病床も患者の入院が一日長引くほど一日あたりの診療報酬が下がるため、病院は経営上、できるだけ入院日数を減らす方策を取らざるを得えなくなった。それに関して東京都内の病院で以前ソーシャルワーカーとして働いていた人物の次のような言葉が引用されている。

経営側から入院日数を減らせとしきりに言われた。転院先はなかなか見つからない。生活保護受給者は身寄りのない場合が多く、行き場を失いかねない。


生活保護受給者を支援する人々の間ではこのような状況を「社会的退院」と呼んで批判する向きがあるという。すなわち、日本という社会は、身寄りのない要介護者、要治療者を平気で路上に放り出す社会であるという意味だろう。「行き場」を失った先には「自分の親族なら入れないような施設」が控えているわけだ。

このような状況をよく知る、生活保護を担当した経験をもつ厚生労働省幹部の次のようなやや無責任な発言が引用されている。

たまゆら』にいるような弱い立場の少数者の声は、票にならないから議員も代弁しないし、制度も改善しない。そんな中、無許可施設に頼るのも福祉事務所の『現場の知恵』としてやむを得ない。


そのような劣悪な精神の議員も議員だが、曲がりなりにも国民の厚生と労働の環境改善に尽くすべき立場にある、しかも「幹部」である人物ならば、役人国家ともいわれるこの国で、その気になれば「制度の改善」につながるような動き、きっかけだけでも作り出せなくはないと思うのだが、実際にはどうなのだろう。


ところで、「(下)終のすみか探るNPO」の前半では、そもそも特別養護老人ホームなどの介護施設の整備が進まない表向きの理由の一つとして建設費の高さが挙げられている。そしてその背景にある本当の理由については「国や自治体が社会保障費を抑制」していることが控えめなトーンで明記されている。具体的には、それは、やはり2006年に断行された厚生労働行政に関わる政策転換である。

すなわち、1999年に策定された高齢者保健福祉施策の一環であったいわゆる「ゴールドプラン21」で定められた施設整備目標にそった介護施設建設費の補助金が、「地方分権」を謳い文句に断行された三位一体改革によって打ち切りになったのである。しかも、裁量を任された地方自治体は財政難等を理由に介護施設の整備には及び腰であるという状況が続いている。

「(下)終のすみか探るNPO」の後半では、一縷の希望のように、民間における頭の下がる思いがするような努力と工夫の事例が紹介されている。「ストリートワーカーズコープ・ぽたらか」と「自立支援センターふるさとの会」という二つのNPOである。それらは、一方では目に余る税金の無駄遣いを黙認し、他方では社会保障費を抑制どころかどんどん削ろうとしてきたこの国の厚生労働行政の無能、無策ぶりを逆照射している。

「ぽたらか」は法律上の位置づけでは社会福祉事業の宿泊所であり、ホームレスの一時利用が建前である。しかし、

実際には行き場のない生活保護受給者らの「終のすみか」となっている。要介護の人や、病院を半ば強制的に退院させられた人も、スペースが許す限り受け入れる。「決して断らない」のが尼僧でもある代表の平尾弘衆さん(56)の方針だ。


また、入居費を生活保護費ぎりぎりに押さえ24時間介護の「介護付き住宅」という試みを始めた「ふるさとの会」の滝脇憲理事はこう語る。

民間を活用し、地域の病院や介護保険事務所と連繋すれば、既存の法律には合わなくても、安い費用で本人のニーズにあったサービスを提供できる。国は発想を変えて、こうしたやり方をサポートする法律を整備してほしい。


「ぽたらか」の平尾弘衆さんと「ふるさとの会」の滝脇憲さんには、欺瞞的な線引きを取っ払い、行き場を失った身寄りのない生活保護受給者たちに、自らが「身寄り」になる覚悟で、人間にとっての最後の居場所としての「終のすみか」をなんとか創出しようとする「本物の人間」を感じる。