現代の善根宿:松本昭司さんの挑戦



沖家室島、鯛の里。2009年12月撮影。

鯛の里は来年で開業20年を迎えます。 多くの皆さんにお世話になりました。 ご愛顧に感謝いたしまして、永年やってみたいと思い続けていた【善根宿】。毎週火曜日が定休日でしたが、この日を【善根宿の日】として、一組3名以内で一定の条件に該当する皆さんに解放させていただいて、活動の応援をさせていただきたいと思います。簡単ですが普通の晩御飯・朝食はおせったいさせていただきます。

 毎週火曜日は【善根宿】(「鯛狸豆日記」2010年04月16日)


 善根宿(民宿「鯛の里」、沖家室島)


先日の「八十八か所復活プロジェクト」に続いて(「古いお遍路道に光が射し、風が吹き抜ける:松本昭司さんの挑戦」)、なんと、沖家室島の松本昭司さんから、鯛の里で善根宿を始めるよー、という知らせが入った。へー、そうか、すごいなあ、やるなあ、と思いながら、松本昭司さんも敬愛する宮本常一の家が江戸時代から大正四、五年頃まで善根宿を続けていたという話を思い出していた。



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(宮本家初代の先祖になる勘左衛門の時代には)まことに気楽な暮らしぶりだったので、旅する者は誰でも来て泊まっていったが、宿銭は決してとらなかったという。いわゆる善根宿(ぜんこんやど)といわれるもので、あらゆる人が来て泊まっていった。そしてこの善根宿は私の家が没落した後も続けられ、大正四、五年頃まで人を泊めていた。そのことについては後にふれることにする。(『民俗学の旅』講談社学術文庫、11頁)

 子供の頃、私の家へはいろいろな人が泊まっていった。田仕事を終えて疲れきって帰ってきて、夕飯を炊いているとき、泊めてくれといって訪ねてくる人がある。すると炊きかけている釜へ米を入れそえ、湯をわかしている鍋に水を注ぎそえる。そして湯がわいてくると、土間にたらいを出し、その中へ手だらいをおいて、湯をいれて、顔を洗い、その湯をたらいにあけて、たらいの中で足を洗わせ、座敷へあげる。一方自分はおかずのこしらえをする。夕飯は茶がゆをたべることが多かったので、準備にはそれほど時間はかからなかったが、それでも客一人ふえるとそれだけ時間もかかる。客の方からおかずに注文がつくと買い物にゆかねばならぬ。しかしそれをだまってして、夕飯になる。
 一人や二人の旅人のときはよいが、五人も六人も泊まるときは布団を隣家の母の家へ借りにいくのが姉と私の役目であった。そうした旅人が出発するとき、米などおいてゆこうとするときはもらったが、金をおこうとすると、追いかけて戻している母の姿をたびたび見た。人を泊めるも泊めないも母の才覚であった。世の中が好景気になった大正五、六年頃から、村に宿をする家もでき、そういう客は来なくなったが、私の家に旅人を泊めるという習慣のあったことを、母は姑からうけついだ。貧しくいそがしい中で、どうしてそういうことを続けたのか。祖母は相身互い(あいみたがい)だからと言っていたが、母はそれを忠実にうけついでそのままそれを守りつづけた。
 これはずっと後年、戦争中のことであるが、家の南にある白木山の上に高射砲隊が駐屯することになり、海軍の兵隊たちが日曜になると山を下って民家を宿にして一晩泊まっていった。私の家へもそうした兵隊たちが来て泊まっていった。母はそういう人たちの面倒をよく見ていた。そればかりでなく、その人たちが戦地へいくとかならず蔭膳を供えた。食事のたびにお膳の上に写真をおき、その日自分の食べるものとおなじものを茶碗や皿に盛っておく。その膳が四つも五つもならんでいるのを見た。とくに戦地へいっている人の御飯は山盛りになっていた。腹のへらぬような願いからであった。またお宮へ参るときは、私をはじめ、その人たちの写真を全部もって参って無事であることを祈っていた。毎朝お宮へ参ることは若いときから一日も欠かしたことがなかったが、どこかで苦戦しているとか、勝利をあげたとかいう話を聞くと、別に武運長久祈願のために参ったわけである。私の子供の頃、父が「そんなに神様に頼むと、神様はうるさがりはしないか」と言ったら、「千に一つ聞いて下さってもありがたい」と母は答えた。父からはよくひやかされていた。「また来たかと神様は後ろを向いているだろう」と。すると母は「なかなか物をきいて下さらんような神様の方がよい。ひょっとしたら聞いてくれるかもしれんと思うから参る。頼みさえすれば聞いてくれる神様へなら参らぬ」と父に答えた。そんな母だった。本当は自分の力一杯を生きての願いであったのだ
 おそらく私のふるさとの百姓の家庭は、こうした家が多かったのではなかろうかと思う。あるいは日本中の多くの家庭がこういうものではなかっただろうか。(『民俗学の旅』講談社学術文庫、46頁〜48頁)


「相身互い(あいみたがい)」(という精神)、「自分の力一杯を生きての願い」という言葉が心を打つ。


「善根宿」(「ぜんこんやど」以外にも「ぜんごんやど」「ぜごんやど」などと読むこともあるようです)とは、中世以来、諸国行脚の修行者・遍路、困っている旅人を無料で泊める宿のことで、「施行(せぎょう)宿」、「おかげ宿」とも呼ばれたそうです。「善根」とは、本来仏教語であり、サンスクリット語では「クシャラームーラ」という言葉に相当し、なんらかの行為が根となって善を生ずるという意味のようです。素晴らしいビジョンです。


松本さんがこのたび善根宿を復活させた背景には、かつて宮本常一の生家が善根宿であったことに対する憧れもあるのかもしれませんが、それだけではない気が強くします。決して失われたものへのノスタルジアではない!


実は、松本さんはこれまでも密かに善根宿をやってこられたのです。何を隠そう、昨年暮れに鯛の里を訪ねた私も善根を施されましたし^^、東京からはるばる歩いてやってくる学生や、なけなしの金をはたいて宮本常一の生地を訪ねてくる人などを何人も泊めてきたのです。ですから鯛の里はすでに知る人ぞ知る善根宿だったのです。それにしても、定休日を開放して、条件付きとはいえ、身銭を切るのは覚悟の上で、善根宿をオープンさせるのは尋常でありません。「いろんな話が聴けて得をする気になるのです。施した側が『ありがとう』とするイスラムの世界ですね」などと軽妙に語る松本さんですが、私の見るところ、年間3万人以上の人が自殺するような「内戦状態」(佐野眞一)と言っても過言ではない社会だからこそ、あるいは、社会の底が抜けて、生存権さえ奪われた人々が増える時代だからこそ、お金には換えられない価値がたとえわずかでも流通する可能性、真に生きる希望が受け渡される可能性に賭けるんだという松本さんの秘めた心意気を強く感じます。


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