後戻りできない人生、後戻りした人生

ある81歳の男性が大都会で神のみぞ知る運命に翻弄されるようにして「人生の終着点」、「終のすみか」としてのいわゆる無届け施設の3畳の個室で「今さら故郷には戻れない」と呟く(朝日新聞2009年5月4日「ルポにっぽん」)。

他方、いったんはそこから逃げた故郷に戻り、紆余曲折と失敗を経て、農業に人生の活路を見いだし70歳の両親、妻と4歳と2歳の息子と生き生きと暮らす44歳の男性はあっけらかんとこう語る。

かつて「それしかないのか」と思った「山と田んぼ」についても、「四季で色とか形とかが移り変わる。感動しますよ」。山も田んぼも、空気のように「そこにあって当たり前」で、その姿をきちんとみていなかったと気付いた。
 「結局、土の上にしか植物は出来ない。トラクターで田の土を起こし、ニラにたかるアブラムシと戦い、実ったトウモロコシに歓喜する毎日で、そんな当たり前のことが実感できた。「でも、何かを消費するだけの都会の人には、それがあまりピンと来ないんだと思う」

(中略)

「収入もほとんど無いんですが、なぜか食っていける。田舎ってすごくないですか?」

 (朝日新聞2009年5月8日「鳩オヤジ、郷里の土と生きる」)

都会の無届け施設の3畳の個室であっても、そこが故郷であり、職員と他の入居者が家族であると思い切ることはできないことではないかもしれない。しかし「今さら故郷には戻れない」という言葉に滲み出ている無念が気にかかる。その言葉に籠められた故郷を捨てた81年の生涯の後戻りできない行程を想像する。81歳の男性の現在と44歳の男性の現在を単純に比較することはできないし、44歳の男性にとっても今後どうなるかは未知数ではあるだろうが、それでも、なお、どうして? と問いたくなる。