せめてゲームを終わらせて

下川さん(id:Emmaus)が書いてくれたように(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090829#c1252031345)、「一見眠い写真でも対象にぴしっと焦点があった深く覚醒したものもあれば、また逆に一見鮮明でコントラストがつよい写真でも何のピント(物理的焦点でなく)もないものもあります」たしかに、そうだと思います。ピンぼけだけどグッと来る写真もあれば、鮮明で綺麗だけどピント来ない、すぐに忘れる写真もある。

写真は刻々と生々しく変化する相手との<交渉>の結果だと思います。写真の力は、カメラの性能に還元されるような性質に由来するのではまったくなくて、シャッターを切る瞬間に凝縮され、色と形の矩形の中に転換される私の生き方、覚悟のほど、孤独の質などから来るということだと思います。どんな写真にもそれを撮った人の人生が写っている。ぼくらはそれを非常に敏感に察知する。そういうことだと思います。その怖さを少しは知るところにまでようやく辿り着いたような気がしますが、まだまだよちよち歩きです。

そしてこのことは、写真を撮る場合にだけでなく、書く場合にも当てはまる、というのが下川さんのコメントの趣旨でした。書く場合にはもっとずっと誤摩化しがきかないとも言えるでしょう。書かれたものから生きる姿勢が透けて見えてしまう。それは実際の仕事や生活が具体的にどうのこうのということではありません。そんなことは書いても書かなくても大差さない。きっぱりと書かないことからもひしひしと感じとられる現実に対する姿勢です。書きゃいいというもんではないし、実名を明かせばいいというもんでもない。ぼくらはいつだってその気になれば書かれた言葉の本質的な主体性を見抜けるのだから。

そんな見抜き見抜かれる場で遊べなければつまらないと思う。切り札を隠したつもりでも、切り札を隠しているという臆病な姿勢が容易に見抜かれる。大事なことは何も隠されてなどいない。裸の勝負。人間が発明した各種ゲームには人生の教訓が部分的に反映しているかもしれないが、人生はそんなゲームのひとつではない。敢えて言えば、そんなゲームを終わらせるのが人生の始まりだと思う。

ところで、下川さんと私のやりとりは、コメント欄でのやりとりから、まるで公開往復書簡のようなエントリー間の問いかけと応答に発展した。前代未聞である。東京と横浜で何度かすれ違いはしたのもの、実際にはまだ会ったことのない下川さんとこんなやりとりをすることになろうとは。愉快である。たかがブログ、されどブログ。

もの言わぬ花のような木のような方たちと(Emmaus' 2009-09-04)

下川さんへ(2009年09月04日)