下川さん、作為は下心とかフィクションと言い換えてもいいのですが、作為にもいくつかの段階というか作法があって、ありふれているのは作為的には見えないようにする作為、作為を隠そうとする作為ですね。僕もそれに陥ることがあるけど、だんだん嘘臭さが鼻について我慢できなくなります。それに比べて,マリオ・ジャコメッリは作為を隠さずに、あからさまな作為を通して、でも、どんな生にも寄り添っている死の影のようなとんでもないリアリティ(タナトス?)を引き出すことをやってのけているから、否応なく引き込まれます。そしてアン・ビクトルの場合には、写真はどうあっても作為的なんだけど、そんなこと言ったら人生は作為の塊みたいなものなわけだから、下手な小細工はしないで、人生の作為の中に写真の作為をきちんと置く、そういう覚悟が感じられるんですね。それで結果的にほとんど作為が感じられない写真になるんだと思います。たぶん、いつもどんな相手とも親密な関係に入っているような気がします。宮本常一に通じる資質かもしれません。そしてそういう場合に相手は自分の知らない自分の魅力的な姿をビクトルに見せる一瞬がある。それを彼は見逃さないんだと思います。逆に言えば、そういう場合しか撮らないんだと思います。一言で言えば、ビクトルはエロスが溢れる一瞬を見逃さない。アラーキーよりずっと深いエロスね。方向性としてはジャコメッリとは正反対ですが、両者はお互いに補完的だと思います。僕にとってはどちらの方向性も必要です。