散歩と旅



札幌に戻ると、秋祭りは終わり、藻岩神社の境内ではカラオケ大会のステージの解体作業が行われ、アパート群の解体作業は思ったほど進んではいなかったが、それでも三分の二の棟はすでに瓦礫の山と化していた。粉塵飛散防止用の覆いのあちらこちらに開いた穴から中を覗いて歩いた。あのクリスマスオーナメントが残されていた部屋のあった棟もすでに瓦礫と化していた。建設と解体は正反対のプロセスというだけでなく、意外にも解体には建設以上の手間がかかり、しかも一種の痛みと重苦しさが伴っているように感じた。建築物の解体と再建は、簡単にリセットというわけにはいかない。解体で生じた瓦礫の山は素材ごとに仕分けられて大きな袋に収納され、再利用に回されるようだ。向平さんちのチョウセンゴミシ(朝鮮五味子, Schisandra chinensis)の果実が完熟していた。わずか数日間離れていただけなのに、見慣れたはずの町内を見る目が微妙に変化している。旅の目が終わっていない。いや、逆に、旅の最中にはふだんの散歩の目が働いていた。散歩するように旅をし、旅をするように散歩する状態に近づきつつある。