決定的瞬間


私がまだ自我形成はるか以前、生後八ヶ月の頃の話。1958年4月、雑誌「LIFE」からガソリン代をせしめたジャック・ケルアックが、ロバート・フランクを伴い、ニューヨークからフロリダへとロング・ドライブの旅に出た。新しい生の感覚を言語を通じて切り拓きつつあると自負していたケルアックは、写真によって遥か未来の地平に独りで立ち、悠然と遊ぶフランクを目の当たりにして大きな衝撃を受けることになる。そんな道中の瑞々しい記録はケルアックの生前には公開されなかった。それは、旅から12年後、ケルアックの死の直後1970年1月に「On the Road to Florida」と題して発表された。写真家ロバート・フランクに対する尊敬と愛情に裏打ちされ、しかも言葉によって写真の描写力に迫ろうとする熱くて初々しい力に漲った掌編である。その中でさすがにケルアックは写真家が決して撮ることができない「叙事詩」ともいうべき「決定的瞬間」について触れている。そして、それを撮ることができる頭の中にしか存在しない「カメラ」についても。

ああ、自分のカメラがあったらなあ、絵のように生き生きとしたショットに記憶をとどめておける頭の中の気違いじみたカメラ。決定的瞬間のまわりをうろついているこの写真家自身のショットが撮りたい。それ自体がひとつの叙事詩だ。

 松岡和子訳、Jack Kerouak, On the Road to Florida「Coyote No.35」, 58頁)


少なくとも私にとっては、言葉によって写真家の仕事の本質を描写しようとしたこの掌編自体がその決定的瞬間のショットと言える質を獲得していると思われるが、ケルアック自身は不満だったのかもしれない。その旅の直後、1959年には二人はまさに叙事詩の描写にふさわしい映画製作に取り組むことになる。



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