ドキュメンタリー写真家:ポール・フスコ(Paul Fusco, b. 1930)


「ドキュメンタリー写真家」という肩書きを初めて目にした。記録写真家。報道写真家と芸術写真家の中間に位置すると思えばいいだろうか。それは「Coyote No.38」(asin:4884182251)に掲載された「アメリカの肖像」と題したインタビュー記事に登場する米国の写真家ポール・フスコ(Paul Fusco, b. 1930)の肩書きとして使われていた。ポール・フスコという写真家の存在も初めて知った。彼は1968年に変革を志し暗殺されたロバート・F・ケネディ(RFK)の遺体をのせた列車に乗り込み、ホームと沿道を埋め尽くす「ロビー」(RFKの愛称)の死を悼む人々の姿を何かに取り憑かれたかのように撮り続けた写真家である。そのとき撮影された写真は紆余曲折を経てようやくまとまった一冊の写真集『RFK』(Aperture, 2008)として、変革を唱導する若き黒人大統領、RFKとよく比較されたオバマ大統領が誕生した昨年出版された。


Paul Fusco: RFK

Paul Fusco: RFK

  • 作者: Senator Edward Kennedy,Vicki Goldberg,Norman Mailer,Evan Thomas,Paul Fusco
  • 出版社/メーカー: Aperture
  • 発売日: 2008/09/01
  • メディア: ハードカバー
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インタビュー記事「アメリカの肖像」は、写真家ポール・フスコの語る言葉の向こう側に、40年前の悲劇の記録写真が形を与えたアメリカの崩落し始めた姿と現在の苦しみつつ回復し始めた姿が二重露光されたような、逆行する二つの時が微かにズレて重なり合うようなアメリカの複雑な姿を現在のありのままの肖像として提示している。取材と執筆は佐久間裕美子による。同行した写真家はポーツ・ビショップ(Ports Bishop, b. 1976)である。インタビュー記事は次のようなフスコの言葉で締めくくられている。

長い間、政治家の手によって想像を絶するようなひどいことが行われてきた。今、ちょっとずつ何かが変わりつつあることを、心から願っているよ。

 「Coyote No.38」209頁


Chernobyl Legacy

Chernobyl Legacy


佐久間裕美子氏によれば、ポール・フスコは、ケンタッキー州の貧しい坑夫、ニューヨークのヒスパニック・ゲットー、ミシシッピー・デルタの黒人たちの生活など、若い頃から一貫して社会問題を静かに告発するような写真を撮り続けてきた。最近は、カリフォルニアでストライキを行った農場労働者、ニューヨークで警察の暴力にデモという形で立ち上がった市民運動家など国内問題だけでなく、メキシコのサパティスタ民族解放軍エイズ問題、チェルノブイリ原発事故の後遺症問題などに取り組んでいる。下にあげた公式サイトおよびマグナムのアーカイブで彼の「記録写真」の世界に触れることができる。特に、すでに写真集『Chernobyl Legacy』(2001)として出版されているチェルノブイリ原発事故後の後遺症をテーマにした写真の一部にはその「記録性」の余りの重さに一瞬言葉を失った。



 Paul Fusco Photography(Official Website)



 Paul Fusco(MAGNUM)


ポール・フスコの写真に対する根本的姿勢については、日本に縁の深いユージン・スミス(William Eugene Smith, 1918–1978)とアンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson, 1908–2004)の写真を見て、写真家の道を歩み始めたという彼自身の言葉に腑に落ちるものを感じた。

これだけ長い間、写真を撮り続けていても、誰かに見せてもいいと思う写真は、ほんの一部だ。僕らは、たとえば二百分の一秒といった瞬間に、完璧なフレームを構成することにすべてを賭けている。優れた写真には、たとえば画家が一年賭けて絵を描くのとおなじような正確な意志と意図があらわれている。だから、できあがった写真をみると、いまだにああすればよかった、あそこが悪かった、と後悔ばかりだ。そんな写真のマジックに取り憑かれて今日までやってきた。でも最終的に、僕にとって大事なのは、写真の出来より、写真が語るストーリーなんだよ。

 「Coyote No.38」207頁

僕の撮る写真は、出版しづらいものばかりだ。地味だからね。拒絶されることにはもう慣れっこだ。でも僕にとって写真を撮る目的はソーシャル・サービスだ。「こんなに重要なことが起きている。関心を払ってほしい」という気持ちだけでやってきた。写真家だろうと、アーティストだろうと、人々の人生を記録して世に伝えようとする表現者には使命感がある。でも、だからといって僕らが特別なことにはならないし、そこには僕らのエゴが存在するってことも忘れてはいけない。僕らは人々に仕える身なんだから。

 「Coyote No.38」209頁)