記憶の彼方からやって来るもの



トオイと正人

 船が目の前を横切るたびに、桟橋からたらした足に生温かい水が押し寄せては引き、繰り返し来る波の、優しいとさえ思えるその波が足を濡らし、風がなめるようにすりぬけていった。これが<チャオプラヤ河>で、中学の地理で習った、<メナム河>ではない。メ(母)ナーム(水)、<母なる水>が河そのものの意味であることを知ったのはずっと後のことであったが、(メ)も(ナーム)も、生まれて間もないころからだれもが真っ先に口にしていたはずで、もしかしたら、まだ母の腹の中にいたときから聞かされていたような気もする。

  瀬戸正人『トオイと正人』朝日新聞社、1998年、21頁

 激しく降るスコールが見たかった。濡れてみたかった。スコールに打たれ、痛いほどに打ちつける雨が二十年たったいまも同じ温かい雨かどうか確かめるためにこの街に来たようなものだった。それがどんなものか少年時代に過ごしたウドーンタニの記憶を手繰り寄せてみたかった。
 裸になり裸足になって、見慣れた空き地も路地もわずか一、二時間で水浸しになってヤシもバナナの葉も沼のようになってしまった庭に埋没してしまい、道も並んで流れる水路も区別がつかないほど景色が一変するとき、大人たちは家に駆け込み、先ほどまで日をいっぱいに浴び乾ききったメーンストリートの向かい側が雨脚で霞むのを黙然と眺めているのを、僕ら子どもは家から駆け出し、腰まで水に浸かりながら雨の中からそれを見ていた。恐れるものは何もなかった。全身の汗もほこりも、涙さえも流してくれる雨、決まって夕方にやって来るスコールの温かい雨が好きだった。
 台湾あたりの東シナ海の海水が日中に温められ、水蒸気となってベトナム北部に吹き寄せられ冷やされてラオスでスコールとなって雨を降らす。ビエンチャンで午後三時過ぎに耐えきれずに降り出した雨が、そのまま真っすぐ南下して四時前にウドーンタニを通り、バンコクには六時過ぎにやって来る。日々決まりきったようにやって来るのだった。夥しい量の雨水がインドシナ半島を水浸しにして、黒い雨雲は南シナ海に抜けて行く。地上に降った雨は僕らの火照った身体を洗い流し、密林に浸透してメコン河に集められ、黄色い水となって同じ青い海に混ざり合うように戻って行く。スコールが来る少し前の僅かにひんやりとした北からの風が足元を擦り抜けて行くとき、九月になって半田山から吹きおろす風に秋を感じたように、自然の循環の仕組みが肌で感じられるのだった。
 メコン河はそのためにある。雨季の間に通り過ぎるすべてのスコールを集めて流し、汗も涙も海に戻すためにあるようなものだった。

  瀬戸正人『トオイと正人』朝日新聞社、1998年、139頁〜140頁


そんなスコールやメコン河やチャオプラヤ河の写真が見られるかもしれないという淡い期待もあって、瀬戸正人の最初の写真集『《バンコクハノイ》1982–1987』(IPC、1989年)を古書で手に入れた。残念ながら、スコールも「母なる水」も直接捉えた写真は収められていなかったが、タイやベトナムに降る「温かい雨」が写真家の目をいつも濡らしていると強く感じさせるいい写真集だった。




バンコク、ハノイ1982‐87―瀬戸正人写真集


1953年、瀬戸正人はタイの東北部の小さな町ウドーンタニで残留日本兵の父親とベトナム系タイ人の母親の間に生まれた。タイのベトナム人社会の中でタイ語母語として「トオイ」という名前で八歳まで育った。その後父親の故郷である福島に移住し、「正人」という日本名で思春期を過ごした。いつの間にかタイ語は記憶の襞の奥深くに封じ込められ、気づいた時には日本語が新しい母語になっていた。大学進学を目指すが受験に失敗し、家業である写真館を継ぐ名目で東京写真専門学校に進学するが、そこで森山大道東松照明の写真に衝撃を受け、家業を継ぐ道からプロの写真家になる道に逸れて行く。岡田正洋、深瀬昌久の下でのいわば修行期間を経て、1981年、28歳でフリーランスの写真家として南青山に事務所を設けるが、仕事はなく、生活は困窮を極めた。翌1982年、一念発起して生まれ故郷のウドーンタニへ帰還する旅に出る。バンコクのアジア・アパートメントに仮住まいしながら、五感をフル稼働させて、八歳までの記憶を徐々に蘇らせて行くことになる。ある時、アセチレン灯の匂いが引金となって、すっかり忘れてしまっていたタイ語が「トオイ」だったもう一人の自分自身とともに「記憶の彼方から」突然やって来る。その瞬間は「全身が硬直するほどのエクスタシーの瞬間」であったと本人は語っている(『トオイと正人』152頁)。そうして二十年間の封印、抑圧が解かれ、トオイか正人かという選択的分裂の危機が、トオイでも正人でもあるという混成的な豊かさに転位していくことを通して、写真家瀬戸正人が誕生した。



参照


アジア家族物語―トオイと正人 (角川ソフィア文庫)



部屋―Living Room、Tokyo



瀬戸正人 写真集 binran