ネマディ


 Bruce Chatwin Home


ブルース・チャトウィン(Bruce Charles Chatwin, 1940–1989年)はかつてネマディと呼ばれるサハラ砂漠の狩猟民族の生き残りに会うためにモーリタニアを訪ねた。チャトウィンが実際に会ったのは、スーダン木綿の切れ端を縫い合わせた小さな白いテントで暮らす大人と子供を合わせて12人の一団だった。そのなかに100歳を越える老女がいた。青い服をまとった彼女は耳が聞こえず、口がきけなかったが、仲間とは手話で話し、微笑みながら、彼に両腕を差し伸べ、鳥がさえずるような声を発したという。後年、彼は「あのあばあさんの微笑みを胸に生きている」と語った。そのおばあさんの微笑みは、人間の醜い面についてのあらゆる主張に振りまわされるのはやめ、「本来の簡素さ(original simplicity)」に立ち返る、「放棄する(Renunciation)」勇気を彼に与えてくれたという(北田絵里子訳『ソングライン』英治出版、2009年、217頁〜218頁、asin:4862760481)。


砂漠の遊牧民といえば、ベドウィンが有名だが、砂漠の狩猟民ネマディは初耳だった。ネマディについてチャトウィンは次のような記録を残した。

 その数週間前、サハラ砂漠遊牧民に関する文献を漁っていた僕は、あるスイス人民族学者の調査報告に基づく、ネマディについての記述を見つけた。ネマディは”地上で最も貧窮した集団”に分類されていた。
 ネマディはおよそ300人の集団と考えられており、30人ほどの小集団に分かれて、サハラの空白地帯、ジェーフ砂漠のはずれを放浪している。スイス人学者の報告によると、彼らは白い肌と青い目を持ち、ムーア人社会においては、”荒野のあぶれ者”として、農耕奴隷であった黒人のハラーティーンよりも低い八番目、すなわち最下層に位置づけられるらしい。
 ネマディには食べ物の禁忌も、イスラム文化に対する畏敬の念もなかった。彼らはイナゴや天然のハチミツを食べ、機会があれば野生のイノシシも食べた。”ティクタール”と呼ばれるアンテロープの干し肉を遊牧民に売って、わずかな金を稼ぐこともあった。
 男たちはまた、アカシアの木を彫って鞍やミルク椀を作り、いくばくかの金を稼いでいた。その一帯の正当な地主は自分たちであり、ムーア人から不法に土地を奪われたとネマディは主張していた。ムーア人に最下層民として扱われたせいで、町を離れて野営せざるをえなくなったのだと。
 ネマディの起源については、おそらく中石器時代の狩猟民族の生き残りであろうと言われている。マッスファ族だったことはほぼまちがいない。1357年にアラブ人旅行家のイブン・バットゥータサハラ砂漠を旅した折、この部族の一員------半盲で、もう片方の目もほとんど見えない男------が案内役をつとめた。バットゥータはこう記している。「この砂漠はすばらしく美しい。魂が安らぐ。アンテロープがたくさんいる。我々のキャラバンのそばをしじゅう通るその群れを、マッスファ族は犬で追いつめ、矢で仕留める」

(中略)

 ネマディは”犬の主人”を意味する。彼らの犬は、飼い主がひもじいときでも餌をもらえると言われており、その躾けのよさは、どこのサーカスでも通用するほどだ。狩りのときは五匹------一匹の”王様”と四匹の従者------がひと組になった。
 狩猟長は、アンテロープの群れを追って餌場の草地を突き止めたのち、”王様”が斜面を一気に駆けおりて獲物の鼻面に噛みつけ、残りの四匹が脚の一本一本に食らいつく。最後に狩猟長がナイフをひと突きし、死んだアンテロープに短い祈りを捧げて、狩りは終わる。
 ネマディは銃を使うことを罰当たりな行為として忌み嫌う。また、死んだ動物の魂は骨に宿ると考えているため、犬たちが汚すことのないよう、その骨を手厚く葬る。

  北田絵里子訳『ソングライン』(英治出版、2009年)213頁〜215頁、asin:4862760481


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