ノマド

人生は、一瞬一瞬が未知に抜ける途上にあり、そのような道を歩くことだと思う。



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 今やっていることはみんなとても新しいことだ、新しい人生の一部だ。

  ヴェルナー・ヘルツォーク『氷上旅日記』11頁


どんな状況にあろうが、そう思えるかどうかだと思う。そうでしかないと思う。



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 ノマド遊牧民)という単語は、牧草地の意味をもつギリシア語からきている。正統のノマドは移動する牧畜者で、家畜動物の所有者・飼育者である。流浪の狩人をノマディック(遊牧する人)と呼ぶのは、単語の意味を取り違えている。狩猟は動物を殺す技術であり、牧畜は動物を生かして役立てる技術である。狩人と遊牧民心理的隔たりは、遊牧民と農耕者のそれと変わらない。

(中略)

 遊牧民の「なわばり」は、季節ごとの牧草地を結ぶ道(path)である。テントに住む者たちは、定住者たちが自分の家や土地に抱くのと同じような感情的な愛着を、この道に対して抱いている。イラン遊牧民は道のことを「イル・ラー(Il-Rah)」と呼ぶが、この語には「生きるすべ(The Way)」という意味がある。

(中略)

 遊牧民が不信心であることはよく知られている。彼らは宗教儀式や信仰の表明にはほとんど関心がない。なぜなら、移動することそのものが、彼らの儀式、「神聖なる」カタルシスであり、キャンプを設営したり解体したりという動作が、新たな始まりを意味するという点では「革命」とも言えるからだ。このことは、移動を妨害されたときに遊牧民が見せる激しい暴力の説明にもなる。さらに、宗教というものが人心の不安の現れであるとすれば、遊牧民は定住者がいまだ果たしていない基本的な欲望を、すでに果たしているに違いない。ユダヤ教キリスト教イスラム教、ゾロアスター教、仏教など、偉大な宗教を広めた定住者たちは皆、かつて遊牧民だったという事実は、逆説的ではあるが、驚くべきことではない。その儀式は牧畜生活のメタファーに満ち、その行列や巡礼は遊牧者の移動を演じる無言劇である。メッカ巡礼(ハジ)は、定住者が世俗の家を離れるための、人為的な移動にすぎない。

  ブルース・チャトウィン遊牧民の侵入」(1972年)、『どうして僕はこんなところに』236頁〜238頁


記憶の彼方で「かつて遊牧民だったという事実」に血が騒ぐ。「ノマド遊牧民)」を知識として語るのでなく、「ノマドの相の下に」この定住生活を生き直し、語り直すこと。