殺す技術、生かす技術


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ブルース・チャトウィンは、流浪の狩人を「ノマド」とみなす世間の誤解を正すために、狩猟は動物を殺す技術であり、牧畜は動物を生かして役立てる技術であり、「正統のノマド遊牧民)」は移動する牧畜者であると述べた(『どうして僕はこんなところに』236頁)。動物を生かして役立てる技術とは、つまりは共生の技術ということだろう。なんでも、「殺す」のは簡単、「生かす」のは難しい。『ウォールデン』のソローに倣うなら(岩波文庫版上巻96頁〜97頁)、殺す技術は、改善されない目的を達するために手段だけがどんどん改善されてきたが、生かす技術、共生の技術は改善された目的を達するための手段が遅々として改善されてこなかったと言えるだろう。



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ソローは『メインの森』の「第二話 チェサンクック湖」のなかで、ヘラジカ(箆鹿, Moos or Elk, Alces alces)をはじめとする動物の乱獲とストローブ松 (Eastern white pine, Pinus strobus)をはじめとする樹木の乱伐に対する強い怒りにかられて、一気に「詩人」を呼び出しながら、生き物や生命の理解の仕方にも触れて、次のように述べている。

 奇妙な話だが、松の木が生えて生長し、そびえ、常緑の腕を光の方にのばしている光景、すなわち松の完全な姿を見に森へ来る人々はごく少数であり、大半の者は市場に運ばれるたくさんの幅広い板と化した松をながめ、それを松の真の栄光とみなして満足している! しかし松は、人間が材木でないのと同様に本来は材木ではない。板にされ、家にされることは、その本当の最高の使われ方ではない。ちょうど人間が切り倒され、肥料にされるのが真正な使われ方ではないように。我々が人間同士の間で結ぶ関係と同様に、松に対して持つ関係にもある高い法則が存在し、作用しているのだ。切り倒された松、枯れた松は、人間の死骸がもはや人間でないのと同様に松ではない。鯨骨と鯨油の価値だけを見出した人が鯨の真の使い方を発見した人と言い得るだろうか。象牙を求めて象を殺す者が「象と見た」人と言い得るであろうか。こんな用途はくだらない、的はずれのものだ。あたかも、人間よりも強い種族がいて、人間の骨を材料にしてボタンや六音孔の笛を製造するために我々を殺すようなものだ。何物でも高い用途に使えると共に低い用途にも使えるのだから。どんな物であれ、死んでいるよりは生きた状態の方がよい。人間でも、ヘラジカや松の木でもそうだ。生き物について正しく理解できる者は、その生命を亡ぼすことよりもむしろ保存の方を求めるであろう。
 そうなると、松の友人で松を愛する者は誰か。松の一番近くに立ち、松の本性を最も良く理解している者とはきこりであろうか。後世の伝説で、ついには松の木に姿を変えてしまったと語られるようになる人は誰か。木の皮をはいでしまうなめし業者であろうか。それともテレビン油を求めて木に穴を開ける採油業者なのか。否、否、それは詩人だ。松の木の真正な使い方を知っているのは彼だ------詩人は斧で木をなでたり、鋸でくすぐったり、鉋でさすったりはしない。詩人は木の内部に切りこまなくても樹心が正しい位置にあるかどうかがわかる。詩人はその木が立っている郡区で伐採権を買ったりはしない。そんな輩が森の床を踏んでやって来るとき、全ての松の木々は身震いし、嘆きの声をあげる。松の木々を自分の野外の分身として愛し、伐らずにおいてやるのは、そんな輩ではなく、詩人なのだ。私は製材所や大工の店、なめし工場、黒色塗料の製造所やテレビン油の採取場を訪れたことがある。けれども、ついに私が、はるかな森の中で松が他の木々の上に高くそびえて、そのこずえが風にゆれ、光を反射しているのをながめたときに、前者のやり方が松の最高の用途ではないと悟ったのだ。私が最も愛するのは、その骨や皮や脂ではない。私が共感を寄せるもの、また私の傷口をいやしてくれるものは、その木の生きている霊気であって、テレビン油の油気ではない。私の魂が永遠であるように松も永遠の存在で、おそらく天まで高くのぼり、そこでもやはり私の上に高くそびえるであろう。(『メインの森』175頁〜176頁)


ソローは実際に従弟のヘラジカ狩りに同行した際に、多くの狩人が「ヘラジカやその他の野生のけものたち」を「ただなぐさみのために殺すというやり方」に対して大きな違和感を抱き、そういう現場に居合わせるうちにだんだん「自分の性質がすさんできたのを感じ、以来数週間もその感じは残っている」とも述べている(172頁〜173頁)。そんなソローが「詩人」に託した純粋な思いを核とした動植物との共生の思想と技術が自覚的に洗練されることが望ましいのは言うまでもない。



ヘラジカ(雄)



ヘラジカ(雌)



ストローブ松