家船(えぶね, Sea Gypsies or Sea Nomads)

風の王国 (新潮文庫)

風の王国 (新潮文庫)


かつて五木寛之の『風の王国』を読んだ時に、その参考文献一覧を見て、これはサンカ研究書並みじゃないかと感心したことを覚えている。visionarさんの「螺旋歌」に倣えば(→ visionarさんの螺旋歌に寄せて)、私も私なりの螺旋を描いて、内旋と呼応して外旋が大きくひと回りするようにして、漂泊民の歴史、ウラの歴史に接近している。海女、瞽女と来て、サンカを始めとするこの国で、いやこの国からはみ出して生きることを強いられた人々の記憶にもっともっと近づきたいと感じている。沖浦和光の『幻の漂泊民・サンカ』(文芸春秋、2001年)を読んでいて、「家船(えぶね)」と呼ばれた一種の海のジプシー、海のノマドの存在を知って驚いていた。しかも、研究者の中には家船とアマの関係を論ずる者もいることを知ってもっと驚いていた(浅川滋男「東アジア漂海民と家船居住」(「鳥取環境大学紀要」2003年))。それはさておき、改めてこの国でこの国からはみ出して生きた漂泊民のことを沖浦和光から学んでいた。ちなみに沖浦和光五木寛之との共著『辺界の輝き ―― 日本文化の深層をゆく ――』(岩波書店、2002年)も出している。


幻の漂泊民・サンカ

幻の漂泊民・サンカ


ここでは、漂泊民の中における「家船(えぶね)」の位置づけを明確にしておくために、沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』(文芸春秋、2001年)から三箇所引用しておく。

 これまで私は、遊行者・遊芸民・香具師・世間師・木地屋・タタラ者・家船漁民、そして今回のサンカ、これら漂泊の旅に生きた多くの人びとから聞き取りを重ねてきた。ひっそりと世間の片隅で暮らしている古老たちにせがむようにして、苦労話や思い出話を聞かせてもらった。賤視の目とその日暮らしの貧困と闘いながら、この世を生き抜いてきた古老たちから、私は多くのことを教えられた。文書として記述されたオモテの歴史からは到底得られない、いろんな話を聞くことができた。そこに、私たちが生きてきたこの「浮世」の深層に関わる何ものかがあった。もちろん、「浮き世」は「憂き世」でもあった。
 おしなべて漂泊民の一生は苦労の多い旅から旅への生活で、報われることの少ない人生だった。そして彼らは自らの人生を語ることもなく、人知れず歴史の闇の中に消えていった。
 この本は日本の民衆社会の下支えとなって生きた彼ら漂泊民への、私なりの讃歌(オマージュ)である。それはまた、もはやその姿を見ることはできぬ漂泊民への、私なりの鎮魂歌(レクイエム)でもある。

 沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』(文芸春秋、2001年)285頁〜286頁

 諸国をさすらいながら、特定の生業で生活した人びとを「漂泊民」と呼ぶとすれば、ひと昔前までは、彼ら漂泊民の姿は日本の各地で見られた。
 だが、1960年代ごろから、その姿はしだいに消えていった。高度成長の時代に入り、技術革新の波が押しよせてくると、近世以来の伝統文化の残影がまだ見られた生活様式は急速に変革され、欧米流の近代化が一挙に進んだ。
 そのような新時代の到来とともに、彼ら漂泊民が生活していく「場」がなくなっていったのである。
 漂泊民には、どうしても「その日暮らしの流れ者」のイメージがつきまとう。そして、その技能や技術の習得にも時間がかかるので、志望する者もしだいに絶えて後継者がいなくなった。かくして、中世の時代から見られた漂泊の民俗は、70年代に入る頃にはこの列島からすっかり消えた。
 
 ところで、日本の歴史に現れる漂泊民は、私なりに整理すれば次の六つに分類できる。
(1)民間布教の最前線にあって、俗界に身をおきながら、乞食体の僧形で諸国を遍歴した「遊行者」。
(2)座や組を編成して各地を回り、それぞれが得意とする芸能でもって、寺社の祭礼やハレの日の門付け芸などで生計を立てた「遊芸民」。
(3)大道芸で人を集め、歯切れのいい啖呵売でしがない商品を売りながら、旅から旅への人生をすごした「香具師(やし)」「世間師(せけんし)」。
(4)陸地に家を持つことなく、諸国の海を漂泊して漁に従事しながら、船住居で一生を過ごした「家船(えぶね)」と呼ばれた漁民。
(5)木材や砂鉄などの原料素材を求めて、一ヵ所にとどまることなく、山から山へ流れ歩いた木地屋・踏鞴師(たたらし)・炭焼きなどの「山の民」。
(6)山野河川で瀬降り(野宿)しながら、川魚漁と竹細工など自然採集を主とした独特の生業で生活してきた「サンカ」「サンカモノ」。
 彼ら漂泊民の共通の指標は、「一所不在」である。土地・家を持たずに各地を放浪しているという理由で、定住民からは見下げられていた。もう一つの指標は「一畝不耕」である。彼らは国の基幹産業である農耕に従事しないので、律令制以来の農本主義的統治理念のもとでは、卑賤視されてきた。したがって、その当時の国家権力が編纂した正史には、彼ら漂泊民はほとんど顔を出さない。つまり、歴史のオモテ舞台に出ることはなく、この人の世のウラ街道を歩き続けたのであった。

 同書282頁〜283頁

 ところで山の漂泊民サンカと対比されるのが、海の漂泊民として知られる「家船(えぶね)」である。家船も外部者が付けたネーミングであって、海民の間では「船所帯」「船住居(ふねずまい)」と呼ばれていた。
 山家と家船とでは、その起源と歴史も全く異なるので、同じ次元で論じることはできない。にもかかわらず興味深いのは、両者の共通点がいくつか見られることだ。
 第一は、両者ともに家のない漂泊民であるのに、その呼称に「家」が用いられていることだ。ただこの場合の「家」は<山に臥す><船で寝る>を含意している。非定住の反語的表現だった。
 第二は、瀬戸内海の家船も、大集団で移動することはなかった。一家族単位が主であって、多くても二、三艘の集団だった。
 第三は家族内分業である。男が漁をして、女が村々を訪れて獲物を売って歩いた。そのような分業システムは、家船もサンカと同じである。
 第四は明治維新後から定住政策が進められたが、やはり普通の町村では受け入れられなかった。瀬戸内海の家船も、非差別部落の移転した跡地かその周辺に定住した場合が多かった。

 同書174頁〜175頁


漂泊民である山家や家船の「家」が定住民の視点から見られた「非定住の反語的表現」であったという指摘を、漂泊民の視点から見返すならば、定住民の家の方が矮小化された「山」であり「船」にすぎないという、定住民は均一化された抽象的な空間に束縛された存在であることが露わになり、むしろ漂泊民の異質な諸空間を移動する自由度が明らかになるように思う。


参照

  
   家船の暮らし.(1958年頃)吉和漁港にて.中村昭夫氏撮影

  
   尾道市吉和漁港の家船