物語の掟


銅色の女の娘たち


次ようなエピソードはどうしても部外者として遠くから眺めるように読むことしかできない。

 「それでも痛みが去らない時は、カエルの体位をしたらよい。まず、こんなふうにうずくまるのだ」
 祖母は実際にやって見せようと、地面に腹ばいになった。
 「膝を下腹に引き寄せて、頭を下げる。額を地につけ、猫のように背中をまん丸にする。そら、こうだ。次に思いきり息を吐きながら、頭を上げて背を反らす。おかしなかっこうに見えるだろうが、効き目はそれこそたいしたものだ。赤ん坊ができた時も、カエルの体位は体に良くて、物みな正しい位置に落ち着く。
 リニキュラが、祖母と並んで地面に腹ばいになり、カエルの体位を試している。リニキュラの母スージーと私とは、じっとこの様子を見つめていたが、互いの顔をすばやくちらりとのぞいた時、私たちは二人とも、あふれる涙をこぼすまいと目をしばたいていたのだった。月経がはじまるまでまだ何年もある幼い少女と、閉経してから何年にもなる女とが、月経の痛みを止める体位を目の前で練習しているのだ。祖母は地べたから立ち上がりながら、少しいかめしい調子で言った。
 「そうだ、それでよい。これでもう決して痛みに苦しむことはないし、薬など飲む必要はない。カエルの体位で気持ちよくなる」

 「環状列石群」より、『銅色の女の娘たち』149頁〜150頁


これは、カナダの先住民の女たちに代々伝わる知恵の一つが祖母から孫娘に伝えられる様子に母親姉妹が感動する場面である。この「カエルの体位」を自分でも試してみたがピンと来るはずもない。カミさんにも読んでもらったが、こんなやり方は聞いたことがない、とどうもピンと来ない様子だったが、ヨガの猫のポーズに似ている、と言っていた。こんな具体的なエピソードを含む、あくまで、女たちの、女たちによる、女たちのための「物語」を男である私はどう読めばいいのだろうか。娘たちに読ませたいとは思うが、、。

どんな女の中にも男の相があり、どんな男の中にも女の相があるのだから、争う必要など少しもないのだ。

 「変化の王妃クォルス」より、『銅色の女の娘たち』49頁


とは言え、やっぱり難しい。


ブルース・チャトウィンは賢明にも、『銅色の女の娘たち』には性差が問題になる場所を巧みに避けて言及するに留めた(→ 「日本に行く歌、太平洋のソングライン」)が、そうもしていられない場所に私は差し掛かっている。森崎和江さんが日本神話の原点に、折口信夫も見て見ぬフリをしたらしい場所に、<穢れ>として封印された「女の真実」の物語をあちらこちらに飛び散った断片をつなぎ合わせて再生させようとしてきた道(→ 「女、母」)が、アン・キャメロンが「女の真実」を含む女たちの秘密の共同体の物語を意を決して公開するに至った道と交差する。


『銅色の女の娘たち』の「訳者あとがき」で望月佳重子さんはこう書いている。

 今年(1991年)の夏、アン・キャメロンは、私の質問に答えて、懇切ていねいな手紙をくれた。手紙には、百六十行あまりの詩が添えられていた。「フェイ・シェン」と題して中国の航海者を描いたこの詩は、小説の「魔法のクリン・オットー」の章に呼応するように、バンクーバー島の先住民とアジアの人々とが、太平洋をものともせず、久しい昔から自由闊達に交流してきた、と歌っている。手紙には、また、私がアイヌの人々の歴史と文学に言及したのをうけて、自分も以前からアイヌの民に深い関心を寄せている、と書かれてあった。こうして私は、「まえがき」の「女たちの内から飛び立ち……女たちへと伝わる信念」を確認し、わかち合うことができた。(244頁〜245頁)


その著者による「まえがき」にはこう書かれている。

 何年もの間、私はバンクーバー島の先住民たちから、物語を聞かせてもらいました------人々は物語をいく世代も口づたえで守ってきたのです。その口承の伝統は、しかし現在、危うく絶えそうになっています。
 多くの物語のうちでも特別のいくつかは、ある秘密共同体に属する数人の愛する女たちが私に語ってくれたものです。彼女たちの始祖は、歴史に記されている時をはるかに越え、「時」そのものの黎明にまでさかのぼります。
 彼女たちが物語を私に語ってくれたのは、私が彼女たちの許可なしに、物語を他で使ったりはしないことを、知っていたからです。さて数年前、彼女たちは、私が「大老女」について詩を書く許可を与えてくれました。次に1980年の夏、私が覚えた物語のほうも、望むなら、人に語ってよいと言ってくれました。こうして私が選んだ文体は、物語が私に向かって語られた時の姿にきわめて近いものになっています。
 物語を語り伝えることに身を捧げている彼女たちが属しているのは、女性を長とするある母系的な共同体です。彼女たたちは、自分たちの名前は公開されないほうがよいし、何の栄誉もいらないと言います。自分たちのアイデンティティと自分たちの共同体のしきたりとは、秘密のままにしておきたいというわけです。私は彼女たちのこの気持ちを尊重したいと思います。
 それでは、これほど長く沈黙を守ってきた彼女たちがなぜついに真実を語ろうと決めたのか、それは、物語の中で説明されています。その説明以上のものは何も付け加えないでほしいと、彼女たちは望んでいます。
 これら数人の女たちと、彼女たちを背後で支える女たちの共同体とは、一つの信念を持っています。それは、女たちの内から飛び立ち、愛と姉妹のきずなとによって、世界中の他のすべての女たちへと伝わる信念です------それはすなわち、過去にこうむった過ちと辱めとは続いてはならないという信念であり、そしてまた、物事をおこなうのにはもっと良いやりかたがあるという信念です。
 私たちのうちのいく人かは、そのもっと良いやり方を記憶しているのです。(3頁〜4頁)


「著者あとがき」には、「女の真実」を含む女たちの秘密の共同体の「物語」に関わる<掟>ともいうべきひとつの「伝統」について次のように書かれている。

 北アメリカの先住民には、とりわけカナダ西岸のすべての民には、一つの伝統があります。それは、物語は、それを語る人のものであり、聞くほうの人あるいは受け取るほうの人のものではない、という伝統です。一つの物語が、ある聞き手から他の聞き手へと、受け渡され、語り直され、共有される------これが可能になるのはどういう時かというと、その物語の持ち主すなわち語り手が、個人の資格で具体的な条件を付けて初めて、そうしてよいという許可を与えた時だけです。
 この本『銅色の女の娘たち』が初めて活字になった時から現在に至るまでの間、本全体をあるいは中のいくつかの物語を、歌曲、舞踏、演劇、映画、ビデオ・フィルム等、さまざまな形に脚色したいという要望が、実の数多くの方々から寄せられました。しかしこれまで、どのような要請もすべてお断りしてきましたし、今後も、いかなる要望にもおこたえすることはできないであろうと思います。著作権は私が保持していますが、いかなる種類の翻案にも許可を与えることはできません。
 なぜなら、本の中の物語に、例えば音楽を付け加えたりすることは、その付け加える行為を望む人のエゴイズムに、またその人が属する民の民族中心主義に、ややもすると傾きがちだと考えるからです。戯曲に改めて劇場で上演することも、舞踏の形にすることも、儀式を伴う催し物に使うことも、何かを付け加えるという点において、同様であると考えます。改変や脚色は、どうしても、物語を私の手に委ねてくださった人々の信義を裏切る結果となるようであるからです。
 それゆえ読者のみなさまには、この本の改変や脚色をお考えになるよりはむしろ、ご自身の物語(ヒストリー/ハーヒストリー)を、じっくり見つめていただきたいと思います。望んでおられるものは、ご自身の周囲の姉妹、母、おば、祖母、祖母の母たちの物語の中に存在します。それらを見つけ出してください。見つけ出したなら、ご自身の形式に従って、書き、歌い、描き、踊り、そうして私たちにわけ与えてください。(238頁〜239頁)


なるほど、「物語」が本当に共有されるとは、自分が幾重にも巻き込まれているはずの、そうとは気づかれにくい<戦い>に気づき、そこに赴くということか。


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