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アン・キャメロン著『銅色の女の娘たち』を読んでいる時、宮本常一の『忘れられた日本人』に収められた「女の世間」の中の次のような指摘を思い出していた。この「女の世間」は「土佐源氏」の直前に置かれている。
女はまた、共同体の中で大きな紐帯(じゅうたい)をなしていたが、それは共同体の一員であるまえに女としての世間を持ち、そこではなしあい助け合っていた。
「女の世間」より、『忘れられた日本人』105頁
その「はなしあい助け合い」の中には、もちろん労働の重さを軽減するような工夫や助け合う仕組みの創案なども含まれてはいたが、宮本常一がそれ以上に注目したのは女たちのおしゃべりだった。とりわけ性をめぐる冗談や笑い話に宮本常一は男の真実にも通底する女の真実を聴き取っていた。「女の世間」は次のように示唆的に結ばれている。
無論、性の話がここまで来るには長い歴史があった。そしてこうした話を通して男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛夫家であるのもおもしろい。女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福である事を意味している。したがって女たちのすべてのエロ話がこのようにあるというのではない。
女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである。「女の世間」より、『忘れられた日本人』129頁〜130頁
宮本常一が郷里で見聞した「女たちのエロばなしの明るい世界」に象徴される「女の世間」は次第に失われて行ったという。だが、現在はどうだろう? 私の知る女たちの多くは世代を問わずそんな世間をしなやかにキープしているように見えるのだが。ここで宮本常一が「エロ話をゆがめている何ものか」と漠然と示唆するに留めたものは、男女を問わず、誰しもが囚われがちな、性に関する偏見のことであろう。性の本来の力は、性差という条件を契機にして、差異を尊重し楽しみ合うことや、対で生きることを根底から明朗闊達にするところにこそあると思われるが、たしかに、広い世間はそれを阻害する気づかれにくい破壊的な要因にあふれているようにも見える。