旅と言葉5:パタゴニア的な死


W. H. Hudson by MICHAEL RENTON, 1984


ボストン南駅から原則的に汽車を乗り次いで延々数か月かかってようやくパタゴニアに着いたポール・セルーは、初めてそこに立ち、目の当たりにするパタゴニアの荒涼たる風景のなかで、一種の宙づり感覚に襲われたことを『パタゴニアふたたび』(asin:4560043159)で次のように述べている。

 そして長い旅路のあと、やっとパタゴニアに着いたとき、ここは一体どこなんだろう、といった感覚に襲われた。だが、何より驚いたのは、自分がまだこの地球上にいることだった。数か月もの間、南をめざしてはるばると旅をしてきたというのに。
 風景は荒涼としていたが、それでも何とか表情を読み取ることはできた。そして今、僕はその風景のなかにいる。そのことは否定しようがない。これは一つの発見だった。この地にも表情がある。人跡未踏の地といえども一つの場所なのだ、と僕は思った。
 下の方はるか、パタゴニアの深い渓谷が黒っぽい岩肌を見せている。岩は太古からの縞模様を描き、洪水による割れ目が刻まれている。前方には、強風のせいで削られ、裂け目が覗く丘陵が広がっている。そして風は今、灌木の茂みで歌っている。灌木もまた風の歌に身を震わせ、やがて体をこわばらせておし黙る。空は抜けるように青い。マルメロの花のように白い入道雲が、町から、あるいは南極から小さな影を運んできた。影は次第にこちらに近づき、叢林を横切るときに波立ち、僕の頭上を通り過ぎる。一瞬ひんやりとした。それから、襞となって東に去っていった。あたりは声ひとつしない。僕が目にする風景は、ただそれだけ。彼方には、山脈や氷河が広がり、アホウドリインディオたちが住んでいることだろう。だが、ここにはこれ以上語るべきものも、足を引きとめるものもない。
 パタゴニア特有のパラドックスと言えばいいのだろうか。広大な空間にひっそりと咲く花。ここでは細密画家になるか、それとも何もない巨大な空間に興味を抱くか、そのどちらかしかない。注意を傾けようにも、両者の「中間」のものが何もないのだ。砂漠の広大さか、小さな花のひっそりとした佇まいか。パタゴニアでは、極小か極大か、どちらかを選ばなければならない。


  『パタゴニアふたたび』16頁〜17頁


「中間」とは人間が作り出したもの、あるいは人間の手が加わったものを指すのであろうが、そのような人為の痕跡さえまったく感じられない広大な空間では、意識の志向性は両極に分裂せざるをえず、そこに通常は堪え難い大きな<空白>が生じるだろう。大変興味深い主題である。ポール・セルーはそのような<空白>のもつ捉え難い希薄な意味について直接には述べていないが、パタゴニア体験においては大先輩にあたる或る人物のパタゴニア観を通して間接的に語っている。

その人物とは、一般には作家、博物学者、鳥類学者(野鳥の優れた細密画家でもあった)として知られるウイリアム・ヘンリー・ハドソンWilliam Henry Hudson, 1841–1922)である。ハドソンは、1830年代にアメリカからアルゼンチンに移住した夫婦の間に生まれ、32年間アルゼンチンに暮らし、そのうち一年ほどをパタゴニア(リオ・ネグロあたり)で暮らした。父親の死を契機にイギリスに渡ったが、妻が細々と営む下宿業に頼る赤貧の生活のなかで、生涯パタゴニアをめぐる著作に打ち込み、ノース・ケンジントンにある最後の下宿屋の最上階の狭い部屋(仕事部屋)で息を引きとった。実際にその部屋を訪ねたことのあるらしいセルーは「6フィート3インチ(約190センチ)もある大男にとって、この小部屋での生活はまさに地獄だったにちがいない」(『パタゴニアふたたび』24頁)と述べている。

セルーは、ハドソンの『パタゴニア流浪の日々』(Idle Days in Patagonia, 1893)を通して、ハドソンにとってパタゴニアとは何であったかを以下のように確認しているが、セルーが引用するハドソンの言葉は、セルーの「パタゴニア的」なるものの解釈よりも一段深い「パタゴニア的」なるものの位相を指し示しているように思う。それについて引用の後に簡単に触れたい。



asin:4915594033

 『パタゴニア流浪の日々』は、1893年にロンドンの下宿屋で書かれた。そこに込められた主張を一言で表せば、ハドソン自身が大文字で書いた「パタゴニアを訪れてみよ」となるだろう。パタゴニアは、人類の病いに対する治療薬なのだ。同時に、パタゴニアへ行くことは、自由気儘に想像力の翼を拡げたダーウィンメルヴィル、それにリー・ハントンがいかに誤っているかを知る良い機会である。この本には彼らへの反証が次々と出てくる。空想による思いつきを排するという点では、ソローの『ウォールデン、森の生活』の精神に最も近いと言えよう。
 ハドソンの考えでは、パタゴニアを知ることは、より高次の生き方、つまり、人間の思想とは全く無縁な「自然」と調和して生きる生き方を意味した。この考えを、ハドソンは「アニミズム」と呼んだ。すなわち、目に見える世界への真剣な愛、と。
 ダーウィンの『ビーグル号航海記』の最終章には、次のような一節がある。

……過ぎ去った思い出を呼びおこすと、しばしばパタゴニアの平原が目の前に浮んでくる。しかし、この平原は荒れ果てた何の役にも立たぬ土地、と誰もがきめつける場所なのだ。特徴として挙げられるのは、どれも否定的な性質ばかり。住民もなく、水もなく、木もなく、山もなく、わずかにいじけた小さな植物が認められるのみ。それなのに、なぜこの乾燥した荒野が、これほどまでにしっかりと私の記憶に焼きついているのだろうか。しかも、それは私だけの特殊な事情というわけではない。こんな荒野より、もっとずっと平坦で緑なす肥沃なパンパスがほかにあり、そちらのほうが人類に益するところ大であるはずなのに、なぜそれが同じ強烈な印象を残さないのか。この複雑な感情は、どうもうまく説明ができそうにない。ただ少なくとも、この土地にこちらの想像力をたくましくさせる何かがあることだけは間違いない。パタゴニアの平原は際限なく続いており、容易に横断を許さないので、それだけに未知の領域も多い。はるか昔から今のままの姿で続いてきたことを感じさせる平原。そして、将来にわたって、今のままの姿で続いていくことを予感させる平原なのだ。もち、古代の人々が想像したように、平らな大地の周りには、越えがたい茫洋たる海原か、それとも灼熱の砂漠が広がっているとしたら、知られている限りでは最後の秘境ともういうべきこの大平原を見て、名状しがたい深い感動を覚えない者がどこにあろうか。

 こうしたダーウィンの当惑に一応の理解を示しながらも、ハドソンは冷ややかな眼でそれを見ている。ダーウィンの過ちは、パタゴニアに何かを探そうとしていることだ。かつて、アンデスの渓谷に白いインディオが住むトラパランダがあると考えられたり、アロンソ・ピサが伝説の都市マノアを探し求めたように。パタゴニアには何も求めないほうがよい、とハドソンは言う。ただそれを感じ、感動せよ。

灰一色の、単調で(ある意味では)面白くないことこの上ないパタゴニア。それなのに、この地を訪れた多くの人の心にくっきりと刻印され、そのイメージが何度となく脳裡に去来するのはなぜか。私自身の経験に照らして言えば、その秘密はまさにそこにある。すなわち、我々を他にもまして感動させる力は、未知なるものの感化力でも我々の想像力でもなく、あの荒涼たる光景にひそむ性質そのものなのだ。

 もう少し後で、ハドソンはその性質について詳しく述べている。

ある日、しじまに耳を傾けていると、ふとこんな疑問が浮かんだ。もし今、大声で叫んだらどうなるだろう? そのときは、この思いつきはあまりにもおぞましく、身の毛もよだつ「突拍子もない空想」だと思えたので、一刻も早く心から拭い去ってしまいたかった。だが、あの土地で孤独な日々を過ごしていると、どんな考えであれ、考えと名のつくものが心に浮ぶなどめったにないことだった。まして、動物の姿が視界を横切ったり、鳥の声が耳を驚かすことなど望むべくもない。こんな心理状態におかれたのは初めてのことだった。何かを考えようという気にはとてもなれない。……思考が停止してしまっていた。私の心は突然、考える機械から何か別の機能をもった機械へと変ってしまったのだ。無理にでも考えようとすると、頭の中でエンジンがブンブン鳴り響く感じがした。あの土地には私を沈黙させずにはおかない何かがあった。抗いがたい何かが。不安と警戒心が交錯する心理状態と言えばいいだろうか。かといって、今にも何かと出会いそうな、胸がわくわくするような期待感とも違う。それは、どこか、今ロンドンの一室にゆったりと座って感じている安堵感に似ていた。……あのときの私には、その心理について考えを巡らせたり、訝る気力はなかった。初めてと言うよりは、どこかなつかしい感覚だった。強烈な高揚感はあったものの、私と私の思考能力との間に何かが入りこんでいることには気づかなかった。それにやっと気づいたのは、そうした感覚を失い、昔の自分、思考力を持った無味乾燥な自分に戻ったときのことだった。

 なぜパタゴニアではこんな気持ちになるのに、熱帯林ではそうならないのか? それは、熱帯林が喧騒、鳥の歌、色彩、動物の生態といった多様さに溢れているからだ、とハドソンは言う。そこでは五感が常に働いている。それにひきかえ、

パタゴニアでは、平原は変化に乏しく、低い丘陵が続き、見渡す限り灰色一色につつまれた世界が広がっている。動物の姿も目新しい物も何ひとつ見当たらない。そんな光景に接していると、心は自然を丸ごと一つのものとして受け入れるようになる。……パタゴニアの自然には、太古の昔をしのばせる、荒涼とした、悠久の安らぎといった趣きがある。あるいは、大昔から今日まで変ることなく、これからも永遠に変らず続いていく荒野、とでも言おうか。そこに住む人間は、定住の地を持たぬ一握りの未開人だけ。彼らは数千年も昔の先祖たちと変わらぬ狩猟生活を営んでいる。

 空虚さ、荒涼とした風景、思考の停止。ロンドンで不遇をかこちながら、ハドソンはかつての幸福な日々を思い起こして、こうした特質を褒めちぎっている。彼にとって、パタゴニアとは何であったのか? おそらく、ロンドンの下宿屋とは似ても似つかぬ理想郷だったのだろう。
 ハドソンはパタゴニアに、アメリカのエデンを見ている。一頭の牝牛がのんびりと横たわり、それを枕に26匹の野生の豚がまどろむ平和な世界を。パタゴニアに住むことは、とりもなおさず自然に身を委ねること。逆説めくが、そこでは情熱は完全に挫かれる。熱狂は消え去り、残るのはただ蜜蜂の巣の一員となったような満足感だけ。彼は嫌悪感をあらわに、現実離れした「机上の空論」や、醜悪な動物も住んでいると書いたダーウィンの本、それに的外れな新聞記事や世間の関心を批判している。
 人の死に様はどうあるべきか? 完璧な死とは「パタゴニア的」な死なのだ。

落馬がもとで一生を終える人、あるいは、水かさの増した川の瀬を渡ろうとして押し流され溺死する人のほうが、おおかたの場合、会計事務所とか食堂で卒中に襲われて死ぬ人よりも、幸福な人生を送っているものだ。まして、リー・ハントがこの上なく美しい最期だと讃えた(私には唾棄すべき悪趣味に思えるのだが)、開いた本の上に青白い顔を突っ伏して死ぬ人に比べたら、はるかに幸福な死に方だろう。

 だが皮肉なことに、ハドソンを待っていたのは、まさにこの唾棄すべき最期だった。


  『パタゴニアふたたび』29頁〜35頁


セルーはハドソンにとってのパタゴニアを知ることの意味、つまり「アニミズム」、すなわち「目に見える世界への真剣な愛」を捉え損なっているのではないかという気がする。あるいは、セルーは自身のパタゴニア体験の真の意味を取り逃がしたのではないかという気がする。前半に引用されたハドソンの言葉には、一種のフィクションにすぎない「理想郷」あるいは「アメリカのエデン」としてのパタゴニアではなく、それ以前の、あるいは、その向こう側の裸の<荒野>としてのパタゴニアがはっきりと見えるからである。しかも、例えば「私の心は突然、考える機械から何か別の機能をもった機械へと変ってしまったのだ」や「私と私の思考能力との間に何かが入りこんでいる」という言葉には、「コギト(我思う)」とそこから構築される西洋文明の解体の認識が見てとれる。そしてそのように一度でもその「三途の河」のような一線を越えた者にとっては、地球上どこにいこうが、外界の風景(ランドスケープ)がどうであろうが、心象風景(マインドスケープ)は「パタゴニア的」にならざるをえないのではないか。そうだとすれば、ハドソンにとってはロンドンの下宿屋もすでに「パタゴニア的」であり、また、彼はあくまで「パタゴニア的な死」を迎えたと言えるのではないだろうか。あるいは渡英後のハドソンは「パタゴニア的な死」を生きたと言えるかもしれない。



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