野生の舌


何度も凍結と解凍を繰り返したエゾノコリンゴ(蝦夷小林檎, Manchurian crab, Malus baccata var. mandshurica)の果実(2009年12月23日撮影)



満開の蝦夷の小林檎の下で(2008年5月16日撮影)




ソローは「野生りんご」(Wild Apples, 1862*1)と題した林檎の歴史と植物としての際立った特質に関する秀逸なエッセイを残している。話の本筋からやや逸れて「やまりんご」について述べるくだりでは、私にとって馴染み深い北海道土着の「やまりんご」であるエゾノコリンゴ(土地によっては「サンナシ(山梨)」と呼ばれる)を思い出さずにはいられなかった。

ぼくたちの野生りんごは、アメリカ土着の種類には属さず、栽培された系統の種が森に迷いこんだだけで、たぶんぼくと同じくらいしか野生的ではないのかもしれない。それよりももっと野性的なアメリカ土着のやまりんご [crab-apple](マールス・コローナーリア [Malus coronaria])が、他の所に生えていることは前にもふれた。その木の「性質は、まだ栽培によって矯められたことがない。」(中略)ミショー [F・A・ミショー『北米文集』1818年] によると、普通の高さは「15から18フィートだが、時には25から30フィートの高さのものも見られる。」そして大きなものは、「並みのりんごの木に完全に似ている。」「花はばら色のまじった白で、散房花序をなす。」その香しさは驚嘆に値する。これもミショーの引用だが、その実は直径1.5インチぐらいで、強烈な酸味を呈する。しかし、すばらしい砂糖づけとりんご酒の材料になるそうだ。「もし栽培することによって新しい味のよい変種ができないとしても、それは少なくとも花の美しさと香りのよさのために珍重されることだろう」と彼は結んでいる。(木村晴子訳「野生りんご」、『アメリ古典文庫4 H・D・ソロー』63頁)


そんな「やまりんご」をソローは1851年5月にミネソタ州ミネアポリスにあるセント・アンソニーズ滝の近くで初めて見たという。


「やまりんごの木」*2


ぼくは滝から8マイル西のところで、それを見つけることができた。それにさわり、芳香をかぎ、ぼくの植物標本に加えるために、まだ残っていた散房花序をひとつ確保した。(64頁)


このエッセイでソローは、人間の味覚における「文明/野生」という対照的な構図に基づいて「野生の味覚」の復権を唱えている。そしてその味覚は野生りんごの賞味を越えて、人生や世界の賞味にまで敷衍されている。

野生りんごの風味を解するには、強壮で健康な感覚、舌と口蓋にしっかりと直立し、容易に倒されたり弱められたりしない味蕾(みらい)[papillæ]を必要とする。
 野生りんごを食べたぼくは経験から、文明人がしりぞけるたくさんの種類の食物を未開人が好むについては、たしかに理由があるとうなずける。後者は戸外の人間の口蓋をもっているのだ。野生の果実を賞味するには、野蛮なというか野生の味覚 [a savage or wild taste] が必要だ。
 だから、人生のりんご、世界のりんごを楽しむには、どれほど健康な戸外の食欲を必要とすることだろう。(73頁)


私の舌がうずいてきた。エゾノコリンゴの果実をこの舌で味わってみたくなった。


ちなみに、上のビデオ「満開の蝦夷の小林檎の下で」(2008年5月16日撮影)に映っているたんぽぽ公園のエゾノコリンゴの木たちは今年になって剪定とは言えない過度の剪定によって、無惨な姿を晒している。あの花の芳香も、枝もたわわに実る果実を目当てに飛来する野鳥の姿も、思い出だけのものとなった。

*1:AMS版のソロー全集(The Writings of Henry David Thoreau, 20vol., 1968)の第5巻(V Excursions and Poems)所収

*2:AMS版のソロー全集(The Writings of Henry David Thoreau, 20vol., 1968)の第5巻(V Excursions and Poems)より。