新吉原総霊塔


浄閑寺の新吉原総霊塔。2005年3月30日撮影。


「都市の深淵から」というタイトルの、今から15年前に放映されたドキュメンタリー番組を学生たちと見た。前後半に分かれている。前半では吉増剛造都電荒川線に乗って三ノ輪橋に荒木経維を訪ね、共に下町を歩き、対話する。荒木家の菩提寺浄閑寺の新吉原総霊塔の前で、一輪の蘭を手にした幼女の傍らで、吉増は荒木陽子さんの死を弔った詩「死の舟」を死者の声のようなと形容したくなるような声で朗読する。「蜘蛛、黄金の祠、、つぶやいた、、、」 それを荒木が撮影する。荒木が撮った写真の中には、無名無数の遊女たちの霊が光の滝となって天から流れ下り、吉原総霊塔を、幼女を、吉増を濡らす驚くべき一枚がある。まるで吉増は幼女を抱いて光の滝を遡って行くかのようにも見える。2005年3月30日に、私はこっそり浄閑寺を訪ねたのだった。天気のいい日だった。永井荷風の詩碑があった。新吉原総霊塔の前に立ち、お辞儀して、手を合わせた。


後半では吉増がニューヨークの地下鉄に乗ってブルックリンにジョナス・メカスを訪ね、共に下町を歩き、対話する。歩いているときも、バーに入ったときも、メカスはボレックスのカメラを手から放さない。メカスはカメラをごく自然に彼の体の一部のように扱う。特別に何かを撮影しているようには見えない。ある夜メカスが声をかけて集まったニューヨークの友人たちの前で吉増は「花火の家の入口で」を日本語で朗読する。「サンパウロ、ウスピ、鞣し革、宇宙船、繻子、靴、ウツキ、ウツキ、、、」母国語の舌の震えの奥の奥の音を響かせることによって、生の、死の、時の、永遠の、あるビジョンが日本語を解さない聴衆の耳に届く。ある早朝5時、メカスの家で、吉増はメカスとの出会いを祝福する英詩「ニューヨーク、午前5時」を日本語の舌の根と英語の舌の根が絡み合うような声で朗読する。「、、、混乱は混乱のままに/濁りは濁りのままに」メカスの目に涙が浮ぶ。「サンキュー、サンキュー、サンキュー」

  歩きながら何もしない「時」がすぎ
  私には「永遠」だけが残った。
私は音の限界を超えて聞き
視界を越えて見る。

(ヘンリー・ソロー著、山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』198頁)

  Then idle Time ran gadding by
  And left me with Eternity alone;
I hear beyond the range of sound,
I see beyond the verge of sight,–

Henry David Thoreau, A Week on the Concord and Merrimack Rivers, LA.*1, p.140)

*1:Henry David Thoreau, A Week on the Concord and Merrimack Rivers; Walden; or Life in the Woods; The Meine Woods; Cape Cod, The Library of America, 1985