本書は昭和17年(1942)に三國書房から女性叢書の一冊として発行された瀬川清子の処女作『海女記』である。柳田國男が「序」を寄せている。先日1970年に未来社から発行された『海女』を読みながらその文体にポエジーを感じたと書いたが、本書にはそれをさらに強く感じた。当時の出版事情はよく分からないが、同名の書が、昭和25年(1950)にジープ社([asin:B000JBH7CO])から、昭和28年(1953)に古今書院から発行されている。また先日紹介したように谷川健一責任編集の『日本民俗文化資料集成4 海女と海士』(1990年)に「海女記(抄)」と題して抄録されている。瀬川清子は1895年生まれだから、本書は47歳の時の著作である。
昭和17年10月1日の日付の入った「自序」では、民俗学の道に入ってからの人生を振り返りつつ、「調査」などという言葉は使わずにあくまで「旅」という言葉を一貫して使いながら、そこに万感の思いを込めて語っていることに感動した。
かわいい子には、旅をさせよ、と申しますが、私はその旅をさせられたように思います。東は上総・房州の山村・漁村から、西は九州の五島の島々、南は四国の阿波の南海岸へ、さうして、日本海に面した国々の村々を訪ねました。
その旅の目的は、郷に入って郷を知る事で、その地の生活振りを理解する為の質問要項を設けて、それによって村を見、古老に尋ね問うたのであります。飛騨の山中の稗飯も、五島の島々のカンコロ飯も、親しく味って、その地の人達の生活振りを如実に感得しようと努めたのであります。
それにしても、旅は憂いもの辛いもの、と云う言葉に背きませんでした。五島からの帰りに、暴風雨にあって、船室の中を隅から隅へところがされている時に、吾しらず涙が流れました。隣の客人に、なぜ、と聞かれて、船が沈むのかと思って、と答えたら、この程度ではまだまだ沈みません、と云われた事を思い出します。実は海に慣れない山国育ちの私は、船の危険と云う事には至って鈍感でありましたが、それよりも、この旅で知った五島の島々の娘達の生活振りが、東北の山の中の、井戸の中の蛙のようだった私の堅い頭に、大きな衝撃を与えたのでありました。これが私と同じこの国に生まれた娘の生活であろうか、と、思いがけないものに思いましたので船の動揺よりも大きい、心の動揺に痛められて、自ら流れた涙であったのであります。婦人の誰もが、この驚きをせずに、平和な室家の生活を営んでいる時に、私ばかりがこの感動に胸を裂かれなければならないのかと、狭い心にのたうちまわる波に堪えかねたのでありました。
その後も旅が続けられました。五島の娘達の朗らかな生活振りは、決して、地方的な特殊なものではなくて、関東の娘も東北の娘も、かつては凡てそうであった過去の姿だった、と云う事が、いつとはなしに理解せられるようになりました。あちらこちらの、村々の話をきかしてくれる老人達の、記憶の糸に縋って、昔の人の生活、昔の人の考え方に辿りつこうと焦るようになりました。今はもう、風土の異色を鑑賞したり、驚異したりして歩いているのではありません。この国の過去の生活ぶりを認識する為の旅をつづけているのであります。そしてその、遠い昔の声々を、自分の生命の中に聞き分け、人々の一挙手一投足にまつわっている千年の伝統の力に触れるのが私の旅の喜びになりました。(7頁〜9頁。引用に際して、旧仮名遣いを現代かなづかいに改めてある)
彼女が「旅」から持ち帰ったものは、柳田國男が「序」で述べた「今まで一ぺんも文字の形で、此世に伝えられたことの無い事実」にとどまるものではなく、むしろそのような事実の持つ「力」、すなわち彼女自身を含めた少なくとも当時の女の生き方を根底から変えるような、解放するような「力」だったように思われる。
代表的な「舳倉島」においても、瀬川清子は海女たちに関する民俗学的に稀少な事実以上に、時には命懸けの生業の中で見せる海女たちの人魚のように美しい姿態や男顔負けの逞しさや底抜けの朗らかさを強調し、それらの中に女としての生き方の理想の実現を見ていたことが窺える。「舳倉島」の最後はこう結ばれている。
この人達の間にいますと、女を弱い者、甲斐ないもの、と思いがちであった心のやり場に困りました。健康な婦人の姿は、決してかよわいものでも、甲斐ない者でもありませんでした。彼の女達は何とも説明はしませんでしたけれども、舳倉島の婦人達は、輝くようにすばらしく頼もしい母の力を持って居りました。こうした一隅の生活の中に、私共を蘇らせてくれる力のあった事を、私は舳倉島の人達から教わったのであります。(14頁。引用に際して、旧仮名遣いを現代かなづかいに改めてある)