生活のポエジー


舳倉島滞在記(能登の海女)」を含む、日本各地の海女の世界に多面的に深く光りを当てた瀬川清子(1895–1984)の『海女』(未来社、1970年)を読みながら、フォスコ・マライーニも鋭敏に感受することになる海女の世界観の核心部分、すなわち生活全体と緊密に織り合わされたような一種のポエジーに触れる言葉に出会い嬉しくなった。引用するのも喜びである。

 二〇年前、昭和八年の夏休みに日本海の孤島舳倉島に行ったことがある。海女の島である。五、六人の乗客と郵便船に入って待ちくたびれていると、日が暮れかかってから、町酒によった老人が帰って来てやっと船を出した。少しも風のない夜だったが、日本海のまんなかどころで故障が起きたらしく三時間というものモーターが空まわりして船が進まない。その間ローソクのようにとぼっている舳倉島の燈台をじいっと見守っていたことを思い出す。
 島はまわり一里ばかりの、牧場のように平らな平原で、前浜に一列に長く家が並んでいた。夏の夜が明けてきらきらと波の背を走る日光が海をわたり始めると男女の小舟が木の葉のように散らばってゆく。海女がもぐって貝をとり海藻をむしると、櫂をもった舟上の男が腰網を引いて浮揚を助けるのである。この一組はたいてい夫婦か親子であるが、他家の男を頼むと舟と弁当持で、取上げの四割、女は六割であった。

(中略)

 二〇日ばかりおって島を去ろうとすると、宿の娘は名残を惜しんで、
 「海にもぐるんを、よそもんは馬鹿にしとるか」
と聞いた。そして、
 「海の底はそれはそれは美しゅうて、そこに働けるがわしらばかりで、いくら金があっても見られんと思っとるが」
といった。こういうことをいう島の人がいとしくって、それから二〇年、思い出してはその言葉の一つ一つを味わいかえしてみるのであるが、未だに消化しきれないでいる。

  瀬川清子『海女』(未来社、1970年)1頁〜3頁


参照


新世紀女性の生き方「時代(いま)」を生きた鹿角の女性(ひと)たち 3女性民俗学者 瀬川清子(本名キヨ)さん(「生涯学習鹿角」第176号、平成14年11月1日発行)