内なるサバルタン:李静和の政治思想




求めの政治学―言葉・這い舞う島

求めの政治学―言葉・這い舞う島


海に浮び、漂う小舟に、その舟底に、疲れ果てた身を横たえるひとりの女の体をもつ人が見える。その人は海中に潜って何かを探し、その何かを捕まえ損なっては、海面に浮び上がることを幾度も繰り返していたようだ。その姿は、かつて瀬川清子やフォスコ・マライーニが伝えてくれた舳倉島の海女たちの海に育まれ海に還るように死んで行った海女たちの姿、最近写真家の内田亜里さんが教えてくれた済州島の海女さんたち、「私の口の中にとれたてのアワビをほおりこんでくれた」「とても強く優しい女性たち」の姿、に重なる。

徹底して〈個〉なるものにずーっと入っていく、降りていく瞬間。そのときの一種の、生まれながらの分裂を抱え込んでいるひとの姿みたいなものがふっと思い浮かぶ。ふたつの面、〈お腹〉と〈さまよう舟〉、それを受け入れないと生きていけないということは、それをすべて許すとか、それでいいんだということとはまったくちがう。逆に、それでもやはり生きていかなければいけない瞬間、ひとはなにかを個別の領域に、風呂敷みたいなものにふっと包んでしまって、その領域だけを見つめようとする自分自身がそこにいる。そこでひとは生きる意味合いみたいなものを自分なりに正当化してもかまわない、自分なりにつかんでいるという問題として、あくまで私はこの舟物語を語ったのである。お腹という意味と、お腹を通っていった、去っていった、踏んでいったひとたちと、それを抱え込もう、抱き取ろうとするもうひとつの〈舟〉のような存在と。それは、もう一度言うと、なんでもいいやさしさの無限な包容力の寓意ではなく、徹底した個として生きていく上でどうしても避けて通ることのできない共同性を、ひとが自分なりに意味づけしていく道を具体的にたどる試みである。自分の体の中に、あるいは意味世界の中に、観念の中に・・・何でもいい、そういう何かを通じて一瞬の意味あいの世界をつくろうとしている、あるいはつくりつつ生きているんだという、そのぎりぎりのところを、お腹と舟というふたつの両義性に託した。矛盾に見えるけれど、それでもって生きていくしかないひとの存在の姿なるもの、それを喚起する歌として、この舟は漂いつづける。あくまで両義的であり、揺れ、揺られる、震えるもの。それを引出すことができればという私の祈りを、この舟は乗せている。(李静和『つぶやきの政治思想』青土社、1998年)


書物もまた一種の「舟」であると言えるだろうか。


十数年前に初めて出会った血の気が無く細身で不安定な印象を与える四六判(しろくばん)の『つぶやきの政治思想』にはノンブル(頁数を示す数字)がない。ある意味でページネーションを拒否した書物として印象深い。ノンブルによるページの連続性のヴェールが剥がされ、ページ以前の物理的に切断された紙の束の姿が露わにされ、バラバラになりそうな難破船? カラダ? が差し出されているかのようだ。筆者と編集者の書物に対する「逆謀(ぎゃくぼう)」が感じられなくもない。一般の書籍によく見られるB6判の『求めの政治学』は血が滲んだようなカバーではあるが、『つぶやきの政治思想』に比べてふっくらとして安定感があり、ノンブルもある。「ほら、あなたも、乗って」という声が聞こえるような気がする。


済州島生まれの李静和(りぃ・ぢょんふぁ, Lee Chong Hwa)さんは、子供のころよくウニを食べたという。そのウニの針(刺?)の話は、対話の可能性を左右するいわば「想像力の針」の話に繋がる。

 私は海の生まれだから、子供のころから海をよく見ていて、ウニをよく食べたんですけれども、絵を描くと、こうなっているんだよね。針というのは、人を殺すまではいかないの。うずきぐらいは与えるけれど。本当のM6(銃剣)とか何かは殺しちゃうけれども、武器まではいかないの。武器の形をしているけれど、ある種の形なんだよ。針みたいなものがどんどん出ているんだけど、ウニの内側には黄色い、タッチしてはいけない柔らかいのがあるのよ。人間の想像力というのは、内側にこの針を半分の五センチ入れて、外側に半分の五センチ入れて、これが一緒じゃないと想像力が働かないということなの。
(中略)
 このウニを子供のころに見て、すごくうまくできているなと思ったんですけれども、この針が外側に出ているのは、外側に対するタッチの領域でもあり、同時に、その針は自分の体と接続しているわけ。あくまで自分の体から外に向けて出ている針だから。ただし、真ん中の黄色い部分にまでは至っていない。ここは傷をつけない。いまの場合は、内部に入ってくる針の長さが外側に出る針よりも長くなってしまうと、想像力が発揮できなくなる。自分が死ぬことになるわけ。(李静和『求めの政治学岩波書店、2004年、19頁〜21頁)

 好きな言葉じゃないけど「メジャー」と「マイナー」という言い方をすると、例えば「マジョリティ」同士はよく話が通じるけれども、「マイナー」と「マイナー」ではどうも話が通じない。それはそう、断絶してるんだから。この問題に全部つながってると思うんですよ。「マイナー」一人一人の人間というのは、自分の内側に入ってくる針の長さと外側にある針との接点がないと、外側に対する想像力はまったくないということなのよね。(28頁)


ちょっと分かりにくいが、「想像力の針」は長さが一定であると考えればいいだろう。その上で、過去の体験や置かれた環境によって、「想像力の針」が自己の境界から外に向かってどれほど出るか、と同時に、内に向かってどれほど刺さり込むか、が左右されると考えられる。下のような三段階の図を思い描いてもいいかもしれない。



例えば、李静和さんが「サバルタン(Subaltern)」、すなわち「自らを語ることができない者であり、たとえ語っても、それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者」(スピヴァク)として念頭に置くハルモニたちをはじめ(「ハルモニたちはサバルタンなんだよね、簡単に言えば」32頁)、過去の記憶を殺さなければ生きてこれなかったような人たちの「想像力の針」は右端のような状態に近いと推測できるのではないだろうか。内側深くに差し込まれ埋もれてしまった針は、外部、他者へと向かうべき想像力としては働きようがなく、語るべき言葉を持つこともできないだろう。


ところが、サバルタンはすでに他人事ではない、と李静和さんは注意する。

ここで私は初めてサバルタンを問いたい。自分の内なるサバルタンに出会えと言いたい。あるかもしれないサバルタンに対するまなざしの手前で。「マジョリティ」と「マジョリティ」は会えるんですよ。伝わる。ただし、そのときの「マジョリティ」と「マジョリティ」は、あくまで権力側同士という組織なんです。(30頁)

外側に出かけて、個別なるある人と出会ったものが、そのまま自分の内なるサバルタンの領域まで果たして響けるかという問題ね。それができたらば、私の願いはかなうんですけど・・・。そこがなかなかね。(34頁)


「自分の内なるサバルタン」に出会うために、李静和さんは「個なるものにおりてゆく」道、「幾重にも夢が重なるような無意識」(金石範)の海に死ぬまで潜り続ける海女のような人生を歩んで来た。

 「個なるものにおりてゆく」というのをつくり出した。それが私の「現場性」なんです。言葉でしか言うことができない、どうしようもない宿命性だから、つくったんです。どんなにそれが苦しかったか。それは日本語だから可能だったの。韓国語では、サラムと言って、分けられないの。そこには普遍的な人間とか何とかの人間は入ってこないの。個人の「人」を消して「個」だけをすくいとったの。私にとってはこれは儀式なの。だから、「個」なるものにおりてゆくしかないの。
 要するに、構造から構造をすくいとるのじゃなくて、個なるものから個をすくいとるという方法がなければ、自分の傷を、あからさまにその生傷をとりだすことでしか、『つぶやきの政治思想』のなかでの祈りはありえない。ハルモニたちが「自分が生きることでしか相手を生かせる道はない」ということ。結局はこれはすべて秘められたものとしてしか運べないものだけれどね。(41頁〜42頁)