花布と栞紐が綺麗な本、『東京骨灰紀行』



「東京骨灰紀行」。表題に参った。思わず買った。矢幡英文氏の聖路加タワービルからの俯瞰写真もいい、装幀もいいなぁ。ついでに、花布(はなぎれ)*1と栞紐も綺麗な製本だ。内容もいい。甘粕大尉のエピソード(239頁)にはちょっとひっかかったけど、小沢信男さんの東京を見る目に感心、共感した。東京の「むかしはむかし、いまはいま、知ったことかいとピカピカにたちならんでいる風情」つまり「21世紀の新品的景観」は、死屍累々の礎石から「しょせんは100メートルや200メートルや600メートルにもたちのぼる陽炎のごときもの、にすぎないのではなかろうか」(247頁)。

都会という不自然な形態は、いかに不自然な死者たちを絶えず生じさせることか。その無量の屍たちのうえにこそ、おかげさまで、多様な町暮らしの喜怒哀楽が、営々とくりひろげられてこられたのだなぁ。そのこしかたを忘れはてた集団に、崩壊以外の、どんな未来がありえようか。(248頁)


現代の東京をこんな風に歩き抜いて見抜いた人がいたとは。語り口は軽妙だが、随所に現代への辛辣な批評が織り込まれ、しかも根本的に温かいトーンが魅力的である。薄っぺらな東京人じゃなくて、気骨のある江戸っ子って感じ。著者の小沢信男さんは1927年新橋生まれの散歩の達人。自己韜晦ぶりも痛快だ。

けんそんでも自慢でもなく私は、米の生る木をろくに知らず、鰯の一匹掬いもせず、火打ち石で火が起こせず、ましてや井戸を掘ったおぼえもない。つまり生存のための労働が、なにひとつできないままに、八十年も生きのびてきました。非力なくせに先輩にさからい後輩をいじめ、憎まれながら世の片隅にはばかってきたのかもしれない。どうしてか。生まれてこのかた、ずぅーっと東京に暮らしてきたおかげでしょうね。都会というところは、はんぱなでくのぼうどもが、けっこう肩で風きってうろついていられる。まことに、どうも。(「あとがき」249頁)

*1:上製本では中身の背の上下(天地)に飾り布を貼り付けますが、これが花布(はなぎれ)・ヘドバン(ヘッドバンドの略)といわれるものです。元々は補強の役割が主だったようですが,現在は装飾と背部を隠すことが主たる目的になっているようです。花布なる言葉は和本にルーツがあり、綿糸を芯に趣のある生地を折り畳んで仕上げられたものでテープ全体が同色なのに対し、ヘドバンは洋書由来で白いテープの端に着色糸が織り込まれたものと言われ、通常は両者をまとめて「花布」と呼んでいますが厳密には区別されているようです」(花布(はなぎれ)のつけ方より)