白い本の全頁をコピーして、床に並べ、3メートルほどの白い頁の庭を作った。
白い本が包まれた手作りの封筒には、何かの符号のように伊勢志摩の浜木綿と海女の切手が貼られていた。
長い夏もようやく終わるころに、東京在住の詩人である大和田海さんから手作りの薄い本が届いた。「夏の庭」と題した長編詩が白い頁に黒のインクで印刷されていた。献辞には「早川義春さんの亡くなった余白に添えた」とあり、終わりは白い頁に消え入りそうな薄い灰色のインクで「早川さん/地上に咲かない花が、この夏の庭に咲いたよ」という呼び掛けで締めくくられていた。「夏の庭」は死者への手紙の体裁をとりつつ、死者と共にある時間を「庭」として形象化していた。大和田さんと私にとって共通の友人のひとりである早川義春さん(id:hayakar)が亡くなってちょうど一年経つ頃だった。私は私で、このブログ上で、汲み尽くせない彼の死の意味を夢の記述に託していた。大和田さんの「夏の庭」はこの世に存在する庭ではないが、頁の上の詩の言葉からはたしかに「夏の庭」とそこに立つ人の気配が感じられた。「夏」は死に最も接近した瞬間を表わしているのかもしれない。そんな「夏の庭」に私もこの足で立ってみたかった。この足で歩いてみたかった。大和田さんには叱れるかもしれないが、白い本の全頁をコピーして、床に並べ、3メートルほどの白い頁の庭を作った。その上を直に歩くのではなく、ビデオカメラを持ってその縁に沿って歩こうとした。ところが、文字が見えるように接写するために、結局匍匐前進さながら、床の上を這うはめになった。這いながらカメラのレンズを通して「夏の庭」を<歩いた>。私にそうさせる力が「夏の庭」にはあった。ところで、白い本が包まれた手作りの封筒には、何かの符号のように伊勢志摩の浜木綿と海女の切手が貼られていた。昨日の記事で紹介した中野正三さんの作品に登場するスパイダー・リリーと同じヒガンバナ科の浜木綿である。さらに、私がある時期執拗に時には済州島にまでその消息を追った海女さんである。おもいがけないつながりに気づかせてくれたり、忘れかけていたことを思い出させてくれた。手作りの封筒に貼られたそれらの切手にも詩的な働きを感じた。
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