佐渡の地蔵堂


上のエントリーを書いた時、村崎修二さんが2000年の夏に佐渡の旅の途中で「無住のお寺ともお堂ともつかない建物」のお陰で、ちょっと大げさに言えば、命拾いした、その「お堂」のことが気にかかっていた。偶然とは思えない何かを感じた。



宮本常一が撮った昭和の情景 上巻

宮本常一が撮った昭和の情景 上巻

宮本常一が撮った昭和の情景 下巻

宮本常一が撮った昭和の情景 下巻


宮本常一の十万枚の写真のなかに佐渡のお堂の写真がある。今手元にある『宮本常一が撮った昭和の情景』の上巻には、昭和34(1959)年の「大久保鳥見。お堂は人の休むのにもいい(8月9日)」と説明の付された写真(72頁)、下巻には昭和45(1970)年の「新潟県佐渡市地蔵堂。ウラ盆(地蔵盆)の法要が催されている」と説明の付された写真(114頁)の二枚が掲載されている。




昭和45(1970)年の写真には宮本常一の著作からの二つの引用も付されている。


佐渡 (私の日本地図 7)

佐渡 (私の日本地図 7)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

佐渡の村々には庵(お堂)のあるものが多い。庵は中世にも盛んにつくられていたようである。墓地の近くにあるものが多く、たいていは無住であり、止住を希望する僧でもあれば住まわせて墓守などさせた。庵は多くは村人の講のあつまりなどに使用され、念仏講は庵で行われることが多かった。村の寄合なども庵を利用することが多かった。大きな寺が領主たちによって建てられたのに対して庵は民衆のたてたもので、そこから村の自治が生まれた(『私の日本地図7』)


寮とか庵とかいわれる程度のお堂ならば、西日本の各部落のほとんどにあったのではないかと思われる。たいていは無住で、日頃は戸が閉まっている。時々寺を持たぬ僧などの住みつくこともあり、村人の捨扶持(すてぶち)と布施などで生活している。その人が死んで後釜がなければ無住になる。
 多くの場合このお堂が寄あいの場所にあてられているのは、もともと宗教的な結衆から寄りあいが発達したものではないかと思わせる。したがって寄りあいの性格の中には多分に結衆のあつまりの雰囲気がそこにのこっていると考えられるのである。そういう社会では年をとり経験を多く積んだものが尊ばれる(『忘れられた日本人』)


二つ目の引用は『忘れられた日本人』の第二章「村の寄りあい」からである。そこで宮本常一はすでに失われた非血縁的な地縁結合、地縁共同体のいわば血の通った制度である年齢階梯制と隠居制度に注目し、かつては地域によって差はあるものの、主婦の集まり、隠居した年寄りの集まり、若衆組、娘仲間など、男女別、男女共、年齢別の多くのグループが村の中に層をなしていたと指摘している。そんな時代には年寄りが行方不明になることはありえなかった。私たちはそのようなグループの崩壊と軌を一にした共同体の崩壊後の、新たな公共圏すら形成されずに、鵺のような世間の中で個の輪郭が溶け切ったような時代を生きている。つまり、村崎修二さんが命拾いしたのはそのようなかつての共同体の気配が残る村の寄あいスポットだったのだ。かつてそこに寄り合った村人たちの魂が彼を助けたのかもしれないと想像さえしてしまう。それはまるで時空が錯誤したようなアジール(庇護)的な場だったと言えるかもしれない。


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