花と蝶と夢


暑さのせいだろうか。夢ではないかと思うほど、カラスアゲハが多い。こんなに沢山のカラスアゲハを見た年はない。今朝の散歩では五ヵ所で見かけた。故塚本さんちの庭に咲く大輪の白いカサブランカと珍しい深紅のカサブランカを撮影していたら、白い方に一羽飛来した。と思ったら奥さんが玄関から出てきた。カラスアゲハですよ。あら、まあ。ある音楽を聴いていたら、涙が止まらなくなって、と涙声で言った。新盆だし、ね、と。


日本では古来、蝶は鳥と同様に、死者の霊を運ぶものと考えられてきた。場合によっては未だ成仏できない霊とみなされることもある。カラスアゲハやクロアゲハのような大きな黒い翅の蝶はとくにそういう連想が働きやすいだろうなと思う。



室蘭民報」8月7日(土曜日)の朝刊に掲載された辺見庸の連載コラムの中見出しに「クロアゲハ」というカタカナがまるでひらひらと舞っているように見えて軽いショックを受けた。読む前から内容の察しがついた。案の定、死刑が執行された7月28日のエピソードだった。辺見庸は敢えて「絞首刑」という言葉を使っている。その最後はこう締めくくられている。

時報が鳴った。ニュースがはじまった。死刑囚二人に今朝、絞首刑が執行されたという。
 熱で黄ばむ空をクロアゲハがとんでいた。宙に黒い正弦曲線をひきながら、ゆらゆらと。鱗粉が散った。


そのコラムのなかほどに、瀬戸内海で投身自殺した生田春月(いくたしゅんげつ, 1892–1930, 享年38歳)の蝶の詩の一部を想起する場面がある。

そうか、黒いチョウは夢からぬけでてきたのか、とおもった。クロアゲハはよくない夢のつづき。「夢より重く、翅を垂れて…」。生田春月の詩の一行を胸になぞる。「よろよろと、出口を探してゐる」と詩はつづくのだ。


それは詩集『象徴の烏賊』に収められた「寂寞」という題名の詩の一部である。



生田春月著「詩集 象徴の烏賊」(第一書房刊)

寂寥

青い木はいたるところにある、
生きた葉は死の表情に慣れて、
尖つた舌の重なつた下から、
寂しい顔がのぞいてゐる、
風の眼を恐れるやうに。


一つの花があらゆる肉體に咲く、
蝶は光に鞭たれて幻惑しながら、
夢より重く、翅を垂れて、
よろよろと、出口を探してゐる。


疲れた眼は永久に閉ぢられて、
傷ついた心をかくまうてゐる。
あるものはだんだん小さくなつて、
最も遠い星に達しようとする。
あるものはただ寂しく微笑する。
數へ切れない夢が
光の中に飛んでゐる、
齒朶(しだ)の扇で
光の方へと追はれながら。


蝶や蜂になったつもりで花の写真を撮っていると、風や身体の揺れによる光のごく僅かの加減が世界を一変させる瞬間を多く経験するようになる。普段は全く感じない手の震えが世界に干渉する。そんな時たしかに彼らは光の中を光の方へと追われる夢のごとき存在なのかもしれないと思える。


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