今メキシコシティーにいるらしい小沢健二の言葉がなかなかよかった。ちょっと長いけど引用。
町に血が流れる時、多くの僕らは泣き、立ちすくみ、走り出し、座り込み、呆然とする。
心配で眠れなくなる。疲れる。誰に向けたらいいのか、怒りがこみ上げる。気持ちが混乱する。後悔する。未来がわからなくなる。居座ろうと腹をくくる。でも、怖い。
それは多くの僕らの、善意がこんがらがった気持ちだ。
けれど、町は善意だけではできていない。
善意に見えるものの裏に、何かがあることがある。
善意とは関係ない、何かが。
では、目にする善意を疑ってかかるのか? そんなことはできない。
あふれる善意は圧倒的に輝き、それは僕ら自身だ。
でも、その光の中で、巧みに動き回る影もある。
強い光の中で、影も強くなる。
だから、ちょっと気をつけた方がいい。
いま、いきなり世の中が、違う世の中になったわけではない。
真実や嘘や、善意や策略や、何だかんだが入り混じった世の中だということは、いつもと変わらない。
…社会の緊急時には、僕らの普段の社会の縮図が現れる。
いつも通り世の中には、善意も策略も、真実も嘘も、美しさも汚さも、混じっている。
その中で、僕らは生きる。
多くの僕らは、計算高く生きてはいない。
多くの僕らは、自分に都合のいいように緊急時を利用しようとは、夢にも思わない。
けれど、そういう人もいる。
いるのが普通。
後で幻滅しないように、そのことは思い出しておいた方がいい。
その上で、だ。
あふれる善意を信じたい。
誰かを、普段より強く思いたい。
涙をこらえて、強く抱きしめたい。
言葉は要らなくなり、詩人の役割はなくなる。
多くの人が、詩そのものになって、きらきらと生きる。きらきらと、亡くなる。
その詩の中に、宣伝の言葉が入ってくるのなら、「あれって宣伝だ!」と叫んだ方がいい。
その詩の中に、政治キャンペーンの言葉が入ってくるなら、「あれってキャンペーンじゃん」と見抜いた方がいい。
緊急時に現れるのが社会の縮図なら、これが最後ではない緊急時を助けるには、縮図のもとになる社会をどうするかということになる。
縮図のもとになる社会をどうするか。
…
でもそれって、緊急時にする話なのか? とも思う。
…
町に血が流れる時を利用するって、それ…。
多くの僕らには、それはできない。
けれど、いつも通り、判断は時と場合によって違うだろう。
強い光の中で、影も強くなる。
善意に見えるものが策略だったり、悪意に見えるものが真実だったり、賢く見えるものが阿呆で、阿呆が賢かったり。
でも、それはいつもの世の中と同じ。
一つ、大空のように見える。
おおぜいの人の苦難は、おおぜいの人が助ける。
すぐに去る苦難ではないけれど。
おおぜいの人が動く、ほとんどは、美しい詩のように動く。
動く。回る。走る。止まる。方向を変える。
気をつけながら。
久し振りに彼の最後のシングル「春にして君を想う」(1998年)を聴いた。