日々の巡礼

歩くことはささやかな抵抗であり祈りである。歩くことを脅かすものすべてに抵抗する祈り。



asin:4062881071


『野生哲学』第一章後半で、ジョゼフ・ラエル(Joseph Rael, b. 1935)が『存在と振動』(Being & Vibration, Council Oak Book, 1993)で綴った、祖母と暮らした少年時代の思い出が紹介されている。ラエルが育ったピクリスという村は、ニューメキシコ州山間部にある先住民の村のなかでも最も伝統的な生活を続けている村である。例えば、下に引用する「日々の巡礼」の挿話には、人間が土地と結び直すべき関係の基本、いわば神話原理が描かれている。

 この村の地面には、数多くの聖なる地点があるという。それはいわば地下の「社(やしろ)」であり、人は内面の目でその地点を見抜くことを学ばなくてはならない。子供たちは、毎日、こうした地点を踏みながら歩くことを勧められる。人が踏むことによって、それらの地点は活性化され、そこから力が湧きだしてくる。地点はほんの数メートルおきにいくつもあって、人というエネルギーの塊が、みずからの振動でそれらの地点を刺激することによって、村全体の魂の状態が高められるというのだ。
(中略)
 大きくいって村は「上の村」と「下の村」に分かれ、両者を一本の小径がつないでいる。毎年の暦にある季節ごとの儀礼で、どの地点がどんな役割をはたすか、あるいはどこに住む誰がどんな役目をひきうけるかが事細かに決まっているピクリスの暮らしの中で、少年は毎朝、これらの聖なる地点をたどりながら、村を一周するのだった。日々の巡礼。本当に「聖なる地点」が人のエネルギーに感応し振動するのかどうかは別としても、それらの地点の存在はたしかに村人たちの日々の歩行すらも祈りの一形式としてまとめあげ、歩くことは日々の務めとなった。
 歩け、歩け、踏め、踏め、そうすればするだけ、土地が美しくなる。驚くべき力強さをもつ思想だ。経済原理によってずたずたに破壊された、日本の都市の日常空間では、想像力の中に入ってくることすらない考え方だ。

  『野生哲学』から


たしかに、私のつたない経験からも言える。歩けば歩くほど、踏めば踏むほど、土地は「美しく」感じられるようになると。現代日本の都市においても、歩くことは都市の「魂」の状態を高めることにつながるだろう。


参照


Official website of Joseph Rael