人生に災難や事故や過ちはつきものだ。それらはその後の人生にさまざまな制約をもたらす。だが、1円にもならないプライドを捨て、そんな制約をゲームの規則だと思って楽しんでしまえば、たいていのことは上手く行く。人は放っておくと漠然とした不安や不幸や不満や大変の気分に振り回されて時間を無駄にするものだが、「歩く」ことだ。将棋の勝負だって「歩」の動きからすべては始まる。犬も歩けば棒に当る。災難の「棒」ではなく、幸運の「棒」に。もっとも災難にも幸運は隠れているかもしれないけどね。とにかく見方や考え方次第で現実はガラリとその様相を変える。もう時間がないではなく、まだ時間があると発想する。今できないと嘆くのではなく、次回の楽しみにとっておくと考える。腹が減って何も手につかないではなく、これで何を食べても美味しく食べられると思い直す。デジカメのバッテリーが切れたりメモリーが一杯になって写真が撮れなくなっても、撮れた分に感謝する。写りが悪いからといって携帯電話のカメラを馬鹿にするのではなく、携帯電話のカメラ独特の味わいのある写真が撮れると考えて、どんどん撮る。もう歩けないと弱音を吐くのではなく、立ち止まって、どこかに腰掛けてこの景色は二度と見られないだろうと思ってしばらく眺める。等々。かくして人生は小さな分れ道の連続だ。しかもあちらこちらで複雑に連絡しあってもいる。だから一見ネガティブな選択を重ねてしまっても、どこかで全体をポジティブに挽回、回復できるようになっている。人生という時間はリニアー、直線的ではない。縦横無尽の縁、関係の網の目を循環する。どこからでも再スタートを切ることができる。もちろん過去の出来事そのものは変えられない。しかしその出来事に対する認識、知を変えることによって「過去」を新たにすることはできる。知は力なり。ちょっと違うか。でもまあ、そこから再出発することができる。そうやって何度でも再出発すればいい。災難や事故や過ちのない人生なんてない。それらの制約を不本意な束縛と見るか楽しいゲームの規則と見るかかで人生はガラリと変わる。