マルセル・デュシャンのヴェルヴェットのズボン

学生の頃、マルセル・デュシャンにはまり、色んなことを学んだ。実践するのは難しいことばかりだが、要するに、いつどこででも、ただ在るだけでいなかる所有をも超えた至高の快楽を持続すること。全感覚を総動員して目の前の世界を深く広く捉え直し、無限を体感する方法、それがそのまま希望であるような方法。例えば、特に今でもほとんど上達していないのは、日々の時間の美しい使い方である。つまり、時間の奴隷ではなく時間の主人になる方法。言い換えれば、人生を計算に貶めずにそれこそを芸術にまで高める方法。もちろん、それ以前にあらゆる現実的諸問題を解決するのではなく解消する方法。そしてそれと表裏一体の方法がある。新しい認識をありふれた表現の中に活かす方法。詩人とは紙一重の方法、あるいはそこで袂を分かつ方法。そもそも新しい認識のヒントは身近なところに溢れている。異国や辺境に出かけなくとも、近所を散歩するだけで、無数のヒントに遭遇する。異国や辺境を歩くようにして近所を散歩する。異国や辺境を近所を散歩するように歩く。マルセル・デュシャンはただ歩いているときでさえ、例えばヴェルヴェットのズボンを穿いているときには、歩くたびに生じるヴェルヴェットが擦れる音を軽い口笛のような音楽として認識していたという。私はヴェルヴェットのズボンは穿かないし、常用するジーンズや綿パンならヴェルヴェットほど美しい音色ではないだろうが、、。とにかく、ただ歩くことがそれだけで目からウロコが落ちるような新しい認識と易しくも新鮮な表現につながっていくということ。だから、例えば、一時間近所を散歩することは、一時間の掛け替えのない<音楽>を演奏し指揮することに匹敵する。そしてたとえ動かなくとも、周囲の微細な変化をいくらでも増幅、チューニングすることができるようになること。いわゆる音楽はそんな無限の音楽へのほんの入口に過ぎないのだと思う。そして、事は音声に限られない。今ここ(now, here)をどこでもないところ(nowhere)にすること。