ソンタリング(Sauntering)と詩人




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ソローの遺作『ウォーキング』(1862年)を読む。ソローは中世の巡礼に由来する聖なる歩行、「ソンタリング(Sautering)」を喚び出しながら、人間にとっての「歩く」ことの根源的な意味に迫ろうとする。

 これまでの生涯を通じて、ウォーキングの技法を心得た人物には一人か二人しかお目にかかったことがない。いわゆる、そぞろ歩き(ソンタリング)というウォーキングの才能をそなえた人物のことである。この言葉の語源をめぐる説にはある種の美しさがある。かつて中世の時代、聖なる・地(サンテ・テール)、つまり聖地へ向かうという名目で、施しを乞いながら国中を歩き回る、定職をもたない人たちがいた。その人たちを指して子どもが「サンテ・テールが来たよ」と叫んだことから、聖地に向かう者(ソンタラー)、という語が発生したのだ。聖地を目指しているというのはまやかしで、徒歩で辿りつくことなどありえず、ただ定職に就かず浮浪者として徘徊していただけの話である。しなしなかには、実際に聖地を目指していた人も存在し、その本来の意味で私はソンタリングという語を用いたい。一方、別の説によれば、無・地(サン・テール)、つまり「土地なし」「家なし」から生じ、原義では、特定の家をもたないが、どこででも構わずくつろげる、といった意味だという。これこそソンタリングの秘訣というべきものである。いつも家でじっと腰掛けてばかりいる人こそ、極めつきの浮浪者であるといえようが、本来の意味におけるソンタラーは決して浮浪者ではない。川は蛇行してはいても、ほんとうは休むことなく海への最短距離を求めているものだが、それと同様である。私としては、最初の説が語源としてもっともらしく思え、それを取りたいと思う。なぜなら、ウォーキングはどんなものであれ、ある種の十字軍であり、われわれの心の中に棲む隠者ピーター某の導きで進軍し、異教徒の手から聖地を奪還する聖戦だからである。(大西直樹訳、ヘンリー・D・ソロー『ウォーキング』4頁〜5頁)


ソローは明言していないが、ソンタラー(saunterer)は歩くこと自体のうちに「聖地」があることを知っていたはずである。ソンタラーにとって歩くことは、誰にも所有することのできない「神の大地」(26頁)を歩くことだった。ソンタリングはそれ自体が祈りだった。そこにはいわゆる知識以前の「黄褐色の文法」(68頁)とも呼ばれた「野生の知」が宿っていた。そして、詩人とはソンタラーの別名だった。

 自然を語る文学はどこにあるのだろうか。風や川を自分のため、自己を語るために利用できる者、それこそ詩人である。春に、霜が浮き上がらせた杭を農夫がふたたび打ち込むように、言葉をその根源的な意味にくぎづけにできる者こそ詩人である。言葉を使うたびにその語の根源を引き抜き、根にまだ土がついたままの言葉をページに移植できる者である。図書館の黴くさい本のページのあいだに、ほとんど窒息状態で挟まれてはいても、詩人の真実にして新鮮、そして自然な言葉はまるで春の訪れを待つ蕾のようにふくらむ。そのとおり、それは毎年、忠実なる読者にために、周囲の自然に呼応して、その言葉にふさわしい花を咲かせ実を結ぶのだ。(56頁)


つまり、詩人とは言葉の<大地>のソンタラーである。


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ソローの誕生と死に関する引用。

 ヘンリー・デイヴィッド・ソローは、1817年7月12日、アメリカ合衆国マサチューセッツ州コンコードに、ジョン・ソローとその妻シンシアの第三子として生まれた。後年、彼は日記のなかで、「私は自分が世界でもっとも価値ある場所に、しかもまたとない時を選んで生まれたことを思うと、いつもおどろきの念に打たれざるを得ない」(1856年12月5日)と述べている。彼はものごころつくころから満45歳に達する直前に死ぬまで、ボストンの西北約30キロのところにある人口二千程度のコンコード村で暮らし、長期にわたってそこを離れたことは一度もなかった。

(中略)

 1860年12月、ソローはフェア・ヘーヴン・ヒルで樹木の年輪を観察している最中にひどい風邪をひきこみ、長年にわたって彼を冒していた肺結核を悪化させてしまった。翌年の春には医者のすすめでミネソタ州に転地療養をこころみたが効果はなく、からだは衰弱する一方だった。彼は死期の近いことを予想して、原稿を整理しはじめる。1862年5月6日、彼は故郷コンコードで静かに息をひきとった。(飯田実訳『森の生活』下巻「解説」320頁)

 彼は定職につくことを一生拒み、当時頭をもたげつつあった消費社会の欲望の論理に背を向けつづけた。生を極限まで削ぎ落とし、根本的に必要なものだけに相対して生きようとし、それを実践した。社会的にも、業績的にも、経済的にも、世間的尺度を拒否しながら「単純に」生きることを貫いたのである。その間、コンコードに腰をすえ、ニューイングランド一帯の自然観察を中心とした日記を書き綴り、それが彼の著述の基礎を作り上げた。われわれが彼の著作に関心を抱かせられるのは、彼の徒歩旅行の行動範囲においてではなく、その間に積み上げられた彼の意識の持ち方とそのひろがりにおいてなのである。
 とはいいつつも、ソロー晩年の旅行はかなり大がかりなものであった。結核に苦しんでいた彼は、なんとか健康を取り戻そうと転地療養をこころみ、ミネソタを目的地として、二か月間、総計三千マイルにおよぶ旅に出る。1861年5月1日のことである。当時のミネソタといえば、フロンティアひろがる未開の原野である。蒸気機関車で陸路を行き、河川は船を乗り継ぐ旅で、ソローにとっては、興味深い動植物との遭遇もあり、多くの収穫を手にする機会となった。しかし、当然ながら病状が好転するはずもない。この旅行から帰ると、疲労困憊したソローの健康は下り坂を転げ落ちるように悪化する。7月10日にコンコードに戻るが、その後は町から出ることもほとんどなく、翌年の5月6日に帰らぬ人となっている。しかも、この旅に同行したホーレス・マン二世は、このとき弱冠17歳にしてすでに博物学者として頭角をあらわし将来を嘱望されていたにもかかわらず、おそらくこの旅で感染したのか、24歳のとき結核でこの世を去っている。
 ミネソタ旅行から帰ったソローは、書きためていた旅行日記をまとめ直し、「西に向かう旅の記録(“Notes on the Journey West”)」という作品を書こうとしていた。しかし、悪化していた健康がそれを許さず、新たな書き下ろしは断念、「西に向かう旅の記録」はついに完成を迎えることはなかった。そこで、既存のエッセーに手を加えて出版しようとする。これらは、彼の死後、『アトランティック・マンスリー』誌上で次々に発表されるが、本書「ウォーキング」もそのうちの一つであった。(『ウォーキング』「notes」93頁〜95頁)