銭函、張碓、朝里




銭函川河口付近から石狩湾を望む



銭函川に架かる銭函

銭函 ぜにばこ

小樽市東端の市街地の名、川名。和人の付けた地名。杉浦氏西蝦夷日誌に「此処鯡(にしん)多くして何時も漁事有てよろしき故かくの如く号けしものか」と書いた。現代流に言えば「ドル箱」の土地なのである。アイヌ時代の旧名は、永田地名解に「モイ・ハサマ。湾・底。又湾の奥と訳す。ハサマまたアサマと云ふ。同義」と書かれた。

  山田秀三『北海道の地名』499頁



礼文塚川に架かる礼文塚橋付近から張碓の海を望む



礼文塚橋

張碓 はりうす

 小樽市内の地名。(中略)ハル・ウス(食料・群生する)の意。従来海陸の食料に富むと書かれたが、この語形の場合は、おおうばゆり、ぎょうじゃにんにくなどの、植物の食料が生えている沢のことであった。

  山田秀三『北海道の地名』498頁

礼文 れぶんづか
 張碓銭函との間の地名、川名。今は銭函1丁目と2丁目の境の川となっている。永田地名解は「レプ・ウン・ノッカ。海岬」と書いた。repun-not-ka「海に出ている(入っている)・岬・の上」の意。

  山田秀三『北海道の地名』499頁



朝里川河口付近の太平山碑を祀る太平山神社と悲恋地蔵

朝里 あさり

 地名、川名。朝里川は定山渓の裏山から北流する長い川(中略)。この辺は高い海岸段丘の下にごく狭い砂浜があり、そこが昔の漁村。鉄道もその窮屈な崖下を通っているが、今は街道も市街地も広い段丘上の平地にできている。この地名もまるで別々の解が書かれてきた
 西胆振日誌は「アサラ。本名アツウシナイのよし。今訛てアサリと云り。名義、楡皮多き沢の義」、(中略)at-ush-naiなら「おひょう楡・群生する・沢」、文から見ると、at-sar「おひょう楡(のある)・湿原」ぐらいに呼んだものか?
 永田地名解は「イチャニ ichani(鮭の産卵場)。和人イチャリと訛るを常とす。因て漁(いさり)の字を充用せしを、漁の字はアサルの訓あるを以てアサリと呼び、遂に朝里村と称す。アイヌ又一郎云、アツウシナイ(松浦氏の)の地名は実にこれなし。甚だしき虚言なり」と書いた。ただし、アイヌの話といっても、時代により違うことが多かったことも考えなければならない。
 北海道駅名の起源は、古くは永田説を書いて来たが、昭和25年版から「朝里駅。マサリ(浜ぞいの草原)から出たものである」と書いた。マサル(masar)は海岸の砂浜に続いている、はまなすなどのある草原であるが、あの辺の崖下の狭い浜には、あまり草原はなさそうである。
 どうも分からない地名。(中略)研究問題として残したい。

  山田秀三『北海道の地名』497頁〜498頁

太平山碑は、1857年に朝里の鍛冶屋の柴田長太郎が発願して建立されました。魂入れは定山和尚が行い、碑に文字を彫ったのは手宮洞窟(国重要文化財)を発見したという石工長兵衛なのです。祠の建立祭は1867年。以来、今日まで130年以上にわたり、朝里の関係者によって、毎年8月にお祭りが続けられています。

 太平山(朝里の歴史・文化遺産)から

1856年、積丹神威岬の婦女通過が解禁された年、張碓で漁場の鎮座祭があり、高島場所の西川伝衛門の娘16歳のお小夜と、朝里漁場の五十嵐清蔵の息子20歳の清吉が出会った。この席でお小夜は清吉に一目惚れ、恋心を抱く。しかし、清吉には許嫁がいた。それゆえ純真な恋心は燃え上がってしまう。ところが、病弱な清吉は27歳で急死。深く悲しんだお小夜も朝里の浜に身を投げてしまう。お小夜の心を知っていた定山和尚は二人の地蔵を建立。今も太平山の横に二人の石地蔵が残っています。

 お小夜、清吉の実らぬ恋の物語(朝里の人と物語)から