詩は「reminder」だと言った詩人がいた。詩は読む者に忘れていたことを思い起こさせる言葉の装置のようなものだと。そしてその詩の言葉そのものは速やかに忘れられるべきだと。しかし、今までそんな詩に出会ったことはめったになかった。なんだか独りよがりで押し付けがましい詩が多かったような気がしていた。最近、「ダチュラ」に惹かれて『ダチュラの花咲く頃』を読んで以来、山本博道の詩集を立て続けに読んでいる。二冊目は『死をゆく旅』、三冊目はこの『パゴダツリーに降る雨』だった。これはマレーシア、ミャンマー、ベトナム、タイ、カンボジア、フィリピン、そしてインドネシアと、東南アジアの国々を巡った旅の経験を、自分が壊れて行くリズムで、生の瀬戸際あるいは死の淵から報告したような詩集だが、そこには私たち人間の思惑をはるかに越えた植物たちの存在と時間が見え隠れしているような気がして、例えば、表題にあるパゴダツリーが、山本博道の口か手になって、風か水の流れのような言葉を発している、そんな痛快な思いにさえとらわれるのだった。そして私は三年前の夏に広州の下九路の蒸した空気の底でプルメリアの花に陶然として、ふとカメラを向けたことを思い起こしていた。
プルメリア(Pagoda tree, Plumeria alba)、広州市下九路で、2010年06月17日撮影