専門演習

参加者の皆さん、こんばんは。


すでに予告した通り、明日の3回目はジョナス・メカス作のアンディ・ウォホールをめぐるドキュメンタリー・フィルムを見ます。テーマはポップ・アートとは何だったのか、そして今何でありうるのか、ということです。ウォホールのシルクスクリーン時代の代表的な作品、マリリン・モンロー、キャンベル缶、エルビス・プレスリー、等々から多くの人が受ける第一印象は「カラフルで明るい」だと思います。彼の作品の同時代的な鑑賞法としてはそれで十分だったのかもしれませんが、私が強く感じるのは、そしてこれはおそらくウォホールが抱いていた思いに通じると思っているのですが、そのカラフルな明るさは、意図された軽さ、匿名性、自己否定ではないが、自己表現としてのアートの否定、あるいは近代的自我の揮発化の戦略、等々、色々な言い方ができるのですが、一種の「悲しさ」の感情、とても希薄でそうとは気づかれにくい、儚(はかな)さを背景に持っているということです。

一般的にはウォーホルの作品群は大量消費社会における「消費」のメタファー、深いイメージを限りなく軽く薄く造形した「アート」と見ることができるでしょうが、私が注目したいのは、彼のあまりに有名になった作品群とフィルムに登場する彼の姿に通底する、自我にこだわることによって生じる感情が解消された後の、それこそ「クール」な世界観、人生観です。でもそれはある意味で暖かくもあった、という逆説。だからこそ、彼は同時代の多くの冒険者たちを惹き付け、「ファクトリー(工場)」さえ作れたのではないでしょうか。

メカスのカメラはやはり激しく震えています。編集以前の根源的な震えです。もちろん、フィルム自体は編集された結果ですが、素材のもつ震えは、いわゆる編集行為を食い破って見るものの心に直に伝わってきます。しかしメカスの眼、カメラの眼差しを、向こう側からクールに暖かく見ているウォーホルが存在した。その彼の眼は一体何を見ていたのか。明日は想像力の触手をそこまで伸ばしてみましょう。

そういえば、『バスキア』も見なくては。すっかり忘れていました。突然思い出しました。と同時にあの映画ではデヴィッド・ボウイがウォーホルを演じていたのですが、非常に違和感を覚えました。おそらくボウイという人はかなり自我の強い人で、ウォホールとは対極に位置するアーティストだからだったのでしょう。あるいは単に役者として無能だったのかもしれませんが、ウォホールの「自我の希薄さ」を全く理解していないとしか感じられない演技でした。他方、バスキア役の俳優はとても魅力的でした。

メイン・サイトの方に、ウォホール関連のサイトを3つリンクしておきました。参考にしてください。