言語哲学入門

受講生の皆さん、こんばんは。

前回は詩人の透視力を借りて、「ことば」そのものからヴィトゲンシュタインの『論考』の「入り口」に近づきましたが、明日の授業では、「映像」から別の入り口を探してみます。映画『ヴィトゲンシュタイン』(1993)を観る予定です。授業時間枠外での上映会は難しいと判断しました。

ただし、いきなり映画を観るのではなく、まずはその映画を作った英国人デレク・ジャーマン(1994年2月19日にエイズで亡くなりました)がどんな人だったかを知ってもらうために、30分のインタビュー・フィルム、『記憶の彼方へ------デレク・ジャーマン ラスト・インタヴュー』(1993)を観てもらいます。これは彼が死ぬ1年前、エイズの病状がかなり進行し、視力もほとんど失われた状態で行われた「遺言」のようなインタビューです。これもまた必要な、そして楽しい迂回路、回り道です。

その後で、ジャーマンが死期迫る中で製作した映画『ヴィトゲンシュタイン』を観ます。これは75分ありますから、インタビューと合わせて105分、授業時間を15分オーバーしてしまいます。次の授業がある人はチャイムを合図に退席してかまいませんが、そうでない人は最後まで観るようにしてください。明日は紙資料も配付しますが、解説する時間はないので、ここに概説を書きます。

デレク・ジャーマンという映画監督(本人は「私は自分を監督だと思ったことはない、映画を撮っただけだ」と断言します)が、ヴィトゲンシュタインという哲学者の哲学と人生をどんなふうに映像化したのか。まずは楽しんでください。それからいろいろな「なぜ」を考えてみましょう。配付する資料にもありますが、ジャーマンは次のような言葉を遺しています。「私の中にルートヴィヒ(ヴィトゲンシュタインファーストネーム)がいる。作品ではなく、私の人生の中に。私の映画はルートヴィヒを描いたものでも、彼を裏切ったものでもない。そこから始まる。これはロジック。」この謎掛けのような言葉の真意はどこにあると思いますか。

ヴィトゲンシュタインという名の人物をはじめとして、映画の中に登場する人物たちは皆、映画の中にのみ存在する、そこで映像(+音声)という形で永世を得る存在です。映画を見る私たちはそれが現実に存在したヴィトゲンシュタインという名の哲学者を「描いたもの」だと考えがちです。しかし、ジャーマンはそのような認識を真っ向から否定するのです。「描いたもの」だとすれば、それは必ず「裏切る」ことにもなる、というわけです。彼は決して実在したヴィトゲンシュタインを映画の中で描こうとしたわけではない。なぜなら、ヴィトゲンシュタインはジャーマンの人生の中にいる、彼の人生の一部になっていて、それを映画の中で描く、再現することは彼には必要なかったからです。では彼は何を描いたのか。何も描かなかった。ただかつてない存在を創造した。それはヴィトゲンシュタインを己の生の一部として取り込んでしまった全人格としてのジャーマンによる被造物です。映画とは何かの描写、再現ではない。未知の存在の端的な創造である。だからこそ、ジャーマンは「そこから始まる。これはロジック。」と断言するのです。

以前紹介したブランショの文学観と一部通底しあう映画観です。

このようなジャーマンの映画哲学とでも言うべき思想を梯子ないしは階段にしてヴィトゲンシュタインの『論考』のもうひとつの「入り口」にたどり着きましょう。


尚、メイン・サイトの方に、デレク・ジャーマン関連のサイトをいくつかリンクしておきました。参考にしてください。