ジョナス・メカスによる365日映画、36日目。
Day 36: Jonas Mekas
Monday February. 5th, 2007 5 min. 55 sec.
With Hermann Nitsch,
Ken and Flo Jacobs
we go to Williamsburg,
Brooklyn's hassidic
area, where Nitsch
buys a new hat.
ヘルマン・ニッチ、
ジェイコブズ夫妻といっしょに
ウィリアムズバーグ、
ブルックリンのハシディム派ユダヤ人地区へ行く
ニッチは
新しい帽子を買う。
ヘルマン・ニッチは1938年ウィーン生まれのユダヤ人アーティスト。ヨーロッパの市民社会の無意識の膜を引っ掻いたり、傷つけたり、破ったりするかのような過激な作品で物議をかもし続けて来た。60年代まではウィーンで活動し、70年代以降はニューヨークを拠点とする。最近でもウィーンのバレエ公演で上映された「流血のアート作品」が騒動を引き起こした。ヘルマン・ニッチはいわゆるウィーン・アクショニスムス(ウィーン・アクショニズム)の創始者兼巨匠であり、現在でも近代を揶揄するかのような過激な儀礼的パフォーマンスを続けている希有なアーティストである。
そんな、いかにもユダヤ人らしい黒服に身を包みあご髭をはやしたニッチと、それから先日登場した実験映画の巨匠ケン・ジェイコブズと彼の妻と一緒に、メカスはブルックリンの彼もかつて何度か住んだことのあるウィリアムズバーグへ行く。一見、ユダヤ人であることがことさら「問題」ではない日常のシーンが映し出される。ニッチが新しい帽子を買い、レストランで皆で食事をする。ニッチの装いとは対照的なカラフルな服装の子どもたちが印象的だ。
粉川哲夫氏の1983年の記録によれば、ウィリアムズバーグは「"ハシディム" 派のユダヤ人特殊地帯」で、「黒服を着てアゴヒゲをはやしたハシディズム派のユダヤ人が集中的に住んで」いたようだが、近藤哲也氏によれば、最近(2005年)はこんな感じで、20年あまりの間にウィリアムズバーグは大きく様変わりした。
メカスはユダヤ系であるか否かは不明だが、粉川哲夫氏によればhttp://cinema.translocal.jp/books/cinemapolitica/c-044.html、彼の故国
リトアニアにはユダヤ人が多く、彼や彼女らのことを〈リトヴォック〉と言う。ユダヤの民衆作家ショーレム・アレイヒェム(『屋根の上のヴァイオリン弾き』の原作者)は、いささか辛辣に、「リトヴォックは、あまりに聡明すぎるので、掟を犯すまえに悔い改めをする」と言っているが、〈リトヴォック〉には、懐疑的で無情な合理主義者という嘲笑的な意味があるように、現実に対してつねに距離をおく姿勢がこの語に含蓄されている。
メカスが、〈リトヴォック〉であるかどうかは別にして、カメラを使って日常生活を〈ノートし、スケッチ〉するという姿勢には、明らかにこの〈リトヴォック〉の精神がひきつがれているようにみえる。ただし、メカスは、〈リトヴォック〉の「ペダンティックで浅薄、ドライでユーモアに欠ける」性格を、逆にカメラを使うことによってのりこえたのである。メカスは、「私は自分のフィルムを記憶やノートと考えている」と書いている(。)
つまり、メカスはカメラによって「現実に対してつねに距離をおく」と同時に現実に対して介入するという二重の姿勢を身につけたのだと思う。ニッチが身にまとう黒服や豊かに蓄えたあご髭は、ユダヤ人としてのシンボルであるのは言うまでもないが、特にその「黒」の意味は、あらゆる波長の光(色)としての世界の情報を吸収しとどめ置く、つまり記憶する、忘れない、という決意の現れのような気がして来た。そうだとすれば、それはメカスがいつも手放すことのないカメラと同じである。黒服によって現実に対してつねに距離をおき、かつ、現実に介入し続けること。
ニッチも、メカスも、そしてジェイコブズも、現実に対して距離を置くのは、そもそも現実の方が私を否応なく突き放すからだと主張するかもしれない。そのある種の暴力を己のなかで血を流しながら受け止めて別の現実のビジョンへと屈折、あるいは反転させることが、私がやっていることだ、と。でもそれはつかの間の、儚い、断片的な楽園の姿でしかない、と。
2005年、東京国立近代美術館で開催された『痕跡 - 戦後美術における身体と思考』展に、ヘルマン・ニッチの作品がクラインやウォーホルやオッペンハイムの作品と並んで「距離が介在しない直接の接触によってかたちづくら」れるボディ・ペインティング、「身体の内的な痕跡」を表現する作品として展示された。ボディ・ペインティングは60年代美術の中でひとつの系譜を形づくっていて、「一定の距離を伴って残された身体の痕跡である」アクション・ペインティングとは一線を画すと言われる。
しかし、このようにいわれる「身体」の抽象性と希薄さはニッチの作品には全くそぐわないと感じる。「直接性」や「痕跡」もしかり。「嘔吐を催すような、目を背けたくなるような、二度と見たくない、気持ち悪い作品」と言ったほうが、ニッチ本人も喜ぶに違いない。そして私の作品なんか問題にならないほど「気持ち悪い」が横行あるいは潜伏しているのが現実である、と。