言語哲学入門

受講生の皆さん、今晩は。

今日の授業で触れることができなかった点について書いておきます。

まず、マルコムの『伝記』の「講義」と「日課」について。

配付した資料の「講義」にはヴィトゲンシュタインの独特の興味深い講義スタイルが描かれています。言葉が「生命」を失わないように、彼はいつもその場でものを考えたというのです。その様子は映画『ヴィトゲンシュタイン』でも描かれていましたね。言葉の生命とは何でしょう?生きた言葉。言葉が生きている状態とはどんな状態か。どう思いますか。私に考えでは、講義という聴衆を前にしたある種の舞台では、例えばノートを読み上げるだけの一方的なコミュニケーションでは言葉は宙に浮いてしまう。つまり言葉は死ぬ。聞き手との間の相互的なコミュニケーションが成り立ってこそ、はじめてそこで言葉は生きる、ということです。

実際に言葉のやり取りがなくても、話しを聞いてくれる人が存在するだけで、すでにコミュニケーションは始まっています。準備した原稿を読み上げることは、始まりかけたコミュニケーションを裏切る行為になりかねません。目の前にいて話しを聞いてくれる人との目に見えない複雑な関係の中で考える。そしてその場で生まれる考えを大切にする。そのようなやり方は大きなリスクを抱えています。しかし失敗や誤解も含めて、そうすることが言葉を生かすこと、コミュニケートするということではないでしょうか。

資料「日課」で語られるマルコム夫妻とヴィトゲンシュタインのエピソードは私が一番心打たれたものでした。「孤独」という言葉の一番深い意味がそこに現れていると感じたからです。とある公園を散歩中に、ヴィトゲンシュタインの発案と指示で始められた天体の運行を体感する遊びの中で、マルコムの奥さんが「太陽」、マルコムが「地球」、そしてヴィトゲンシュタイン本人は一番大変な「月」の役を買って出て、太陽の周りを回る地球の周りを回る月になったヴィトゲンシュタインは全速力で走り続けた......。「月」の西欧における語源はルナで、ルナティックとは「狂気」。東洋でも月は太陽との比較で陰性を帯びたイメージ群を引き連れていますが、いみじくも、というか、偶然か、狂気すれすれの孤独を抱えたヴィトゲンシュタインは半ば道化のようにも見える月の役を息が切れて目がまわり倒れ込んでしまうまで演じる。私はデレク・ジャーマンの向こうを張って、このエピソードを中心にしたヴィトゲンシュタインの映画のシナリオを暖めていました。そこで使う音楽を実は「My Foolish Heart」と決めていました。それで、『大停電の夜に』を観たとき、のっけからその曲が使われていたので、「やられた」と思うと同時に「これ、どうなの?」と思ったわけなのでした。

ところで、『論考』本文については、今回は本文最初の「1-2.063」を後回にして本文最後の「6.4-7」を一気に解説してみました。前回まで「出口」と称してきた場所に関わるヴィトゲンシュタイン本人の言葉に直に触れておくのが先決だと判断したからでしたが、すでに僕の言葉で数回語ったことのある内容に重なる部分ですから、ある程度は理解できたのではないでしょうか。もし不明な点等あれば、いつでも質問を寄せてください。


さて、次回以降は今回後回しにした本文最初の「1-2.063」から順に解説していく予定です。世界の意義は世界の中にはない。世界の外は考えられないし語ることもできない。しかしその外から世界は意義を与えられ、生もまた外から意味を与えられているとしか考えることはできない。そのような外の思考は、それでも、なんらかの仕方で可能ではないのか、という根本的な疑問を抱いた学生さんもいると思います。その問題を扱う前に、先ずどのようにしてヴィトゲンシュタインは世界と生はつねにすでに意味と価値に満たされていると考えざるを得ないことを証明したのか、次にそのような世界と生を私たちはどう生きればよいのか、について『論考』のテキストに沿って確認したいと思っています。