対話の根源的な作法をめぐって

一昨日投じたエントリー「体と地球」に対して、takuoこと若い友人の平岡さんが、対話の根源的な作法の観点から、鋭い批判を投げかけてくれた。

嬉しかった。それに対して私もすぐにコメントを返した。そのやり取りのなかで、私はこの「三上のブログ」で書き続けているエントリーでの「立ち位置」を含めて、自分のコミュニケーションの射程と限界について考えるきっかけを与えられた。平岡さんは次のように書いていた。

必要なのは自分の価値観から語るのではなく、その時成立していたコミュニケーションを再考する事なのではと思った。そこには、一方だけの想いではなく、双方の価値観が入り乱れた、当事者だけが感じられる豊かな世界が広がっていると思う。まずは、語られ得ない世界へとダイブするのだ。自分側に単純化して理解した気になるのは勿体ないやり方だと思う。

図らずも、「言語哲学入門」という受け持ちの講義で、ウィトゲンシュタインという哲学者の若き頃の思考の集大成である『論理哲学論考』の思想の「前向きの解釈」を、「自分の理解を超えたものに対する感受性を失わずに、どう転ぶか分からないコミュニケーションに挑みつづけること」とでも要約できるものとして、学生たちに伝えようとしていた矢先でもあった私にとって、平岡さんの言葉は、深く私の胸に響いた。

オープンであれ、とは口では簡単に言えることだが、実践するのは難しい格率だ。己の価値観をいわば宙吊りにして、現場で生々しく進行する暗中模索に近いコミュニケーションに身を委ねるということだからだ。「勇気」が要ることだ。今までの自分が根源的に揺らぐことを覚悟できなければなし得ないことだ。しかし、コミュニケーションとはそういうことではないか。そうでなければ、ブログをやる意味もないのでは?私のことを敢えて「恩師」と呼ぶ平岡さんは、そんな風に今でも私を挑発してくれる。この上なく、嬉しい。